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私の旅日記
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2006年
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三嶋大社
〜若山牧水の歌碑〜
国道1号から県道22号三島富士線に入ると、
三嶋大社
(HP)がある。
三嶋大社神門
三嶋大社は伊豆国
一宮
。
御祭神は大山祇命
(おおやまつみのみこと)
、積羽八重事代主神
(つみはやえことしろぬしのかみ)
。御二柱の神を総じて三嶋大明神
(みしまだいみょうじん)
と称しているそうだ。
大山祇命
(おおやまつみのみこと)
の娘が木色咲耶媛
(このはなさくやひめ)
である。
積羽八重事代主神
(つみはやえことしろぬしのかみ)
は事代主神
(ことしろぬしのかみ)
の別名。美保で国を譲った後、三嶋大社に御鎮座とのこと。事代主神
(ことしろぬしのかみ)
は大国主神の子。
治承4年(1180年)8月17日、伊豆の韮山・
蛭ケ小島
に配流されていた
源頼朝
は平家を討つために兵を挙げ、監視役の平兼隆を討った。
源頼朝旗挙げの碑
治承4年8月16日、源頼朝は北条時政を招き、旗挙げの相談をし「先つ八牧判官兼隆を夜討ちにすべき急ぎ相計へ」時政「但し今夜は三島社の御神事にて、「国中には弓矢と二事候はず(源平盛衰記)との意見を入れ、17日夜討ちと決定した。17日、籐九郎盛長を奉使として戦捷を起請し(
東鑑
)旗挙げに成功したのである。
2日後、すなわち8月19日、報賽のため神領寄進の下文を寄せた。現在この下文は宝物として社蔵されている。
三嶋大社拝殿
仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中で三嶋大社に参拝している。
伊豆の国府に至りぬれば、三嶋の社 のみしめうちお
(を)
がみ奉るに、松の嵐木ぐらくお
(を)
とづれて、庭のけしきも神さびわたり、此社は、伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞にも、能因入道、伊予守実綱が命によりて歌読み奉りてけるに、炎旱の天より雨にわ
(は)
かに降て、枯れたる稻葉もたちまち緑にかへりけるあら人神の御名残なれば、ゆふだすきかけまくもかしこくおぼゆ。
せきかけし苗代水のながれ来て又あまくだる神ぞこの神
『東関紀行』
弘安2年(1279年)10月27日、阿仏尼は三嶋大社に参詣している。
伊豆の国府といふ所にとゞまる。いまだ夕日残る程、三嶋の明神 へ参るとて詠みて奉る。
『十六夜日記』
文明3年(1471年)、
宗祇
は伊豆国三島にて東常縁から古今伝授の折、常縁の子竹一丸風邪祈祷立願報賽のため、「宗祇独吟千句」を三島明神に奉納。
文明18年(1486年)、道興准后は三嶋大社に参詣している。
かくて三島にまうでて、
波たてぬみよにと祈る三島江のあしてふことを払へ神風
『廻国雑記』
貞亨4年(1687年)4月、大淀三千風は三島大明神に参拝している。
偖古跡古跡を狩果し。三島大明神に御橋拜す。嗚。松杉の梢にもぬけし大社なりしが。近き比炎上まします。げにも神代を慮かの火神軻遇突智血分
(ほつかみかぐつちゝわけ)
神大山祇尊なれは。火災あまたたびにやといと悲し。佐理郷の額に日本惣鎮守とかゝれしは。いとやんごとなき神になん。
『日本行脚文集』(巻之七)
元禄3年(1690年)9月、鬼貫は江戸に向う旅の途上大三嶋大社に参詣している。
三しまの社 を拜み奉るに、みな幾抱あらむとおもふ斗の松杉、間なく立こもりて、さびわたる神風に梢のしづく落るも遠し。眞砂はその白玉にうるほひ、御池は水の面青み立て、底おぼつかなくすごし。
雜
ちはやぶる苔のはへたる神鰻
(※「魚」+「旦」)
『鬼貫句選』
元禄5年(1692年)5月24日、貝原益軒は三嶋大社を訪れている。
三嶋の社は数年前、回禄のわざわひありて、いまだ神殿なし。神領五百三十石有。箱根路をけふこえゆけば、いさゝか感慨のこゝろいできぬ。老の身のなすことなく、才徳のつたなくて、むかしこへし時にかはらぬことを、はぢて思ひなげく。三嶋と箱根の間に伊豆相模のさかひあり。今宵は小田原にやどる。
『壬申紀行』
三嶋大社の末社伊豆魂神社に境内の入口に
芭蕉の句碑
があった。
どむみりとあふちや雨の花曇り
佐久間柳居
は三島明神に句を奉納している。
卯の花の雪解や神子の化粧水
『柳居発句集』
元文2年(1737年)5月末、
白井鳥酔
と秋瓜 は箱根から沼津に向かう途中、三嶋明神を訪れている。
三嶋明神にて
卯の花の雪解や神子の化粧水
秋瓜
入梅晴や鳩の鞁
(つづみ)
の神楽堂
西奴
『夏山伏』
享和元年(1801年)2月29日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で三嶋大社に参詣した。
今井坂を下り、かはら前の橋をわたり、三島の宿につく。右に三嶋の神社あり。神池の橋をわたりてひろ前にぬかづき、けふ事ゆゑなく険き道をわたり来れる事など思ひつゞけて、ぬさ奉る。
『改元紀行』
文化3年(1806年)7月3日、菜窓菜英は三嶋大社に参拝した。
三日も日和よけれハ、朝立して名に負筥根
を越んと、竹にて製したる丸き駕籠に
打のり、まつ三嶌明神にぬかつき、若身に
誓詞なす時にはなと思ひを発し、ねふりねふり
国堺もしらす、山の頂にのほりぬ。
鳴かすともねむらて通れ関の虫
『山かつら』
明治25年(1892年)10月14日、
正岡子規
は三嶋大社に詣でた。
三島神社に詣でゝ昔し千句の連歌ありしことなど思ひ出せば有り難き身に入
(し)
みて神殿の前に跪
(ひざまず)
きしばし祈念をぞこらしける。
ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら
「旅の旅の旅」
境内の入口に
若山牧水の歌碑
があった。
のずゑなる三島のまちのあげ花火月夜のそらに散りて消ゆなり
昭和12年(1937年)10月12日、
与謝野晶子
は
湯ヶ島温泉
から三嶋大社を参詣している。
仄じろくお會式ざくら枝に咲きしぐれ降るなる三島宿かな
こと過ぎぬ今さら何を申す三島明神箱根權現
『白桜集』
(時雨抄)
戸田温泉
へ。
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