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俳 人

仙石廬元坊
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 本名は佐野与兵衛。 各務支考 の門人。美濃派(獅子門道統)三世。別号、里紅。茶話叟。黄リ師(※「リ」=「麗」+「鳥」)

 元禄5年(1692年)、美濃国本巣郡北方に生まれる。

 享保12年(1717年)4月1日、里紅は支考に勧められ美濃から越前・加賀・能登・越中に俳諧行脚。松任の 千代 に迎えられ連俳、若推も参加している。

 享保13年(1728年)、 『桃の首途』 (里紅編)刊。蓮二坊序。

 享保14年(1729年)、 『秋田蕨』 (也柳編)刊。仙里紅序。也柳自序。

 享保15年(1730年)、廬元坊は西国行脚の途上、 野坡 の浅生庵を訪れる。

   難波の浅生庵を尋ねて、

花に実に目やなぐさめて夏畑
  里紅

二百里おくる蚊屋の初門
   野坡


 享保15年(1730年)9月、小倉に上陸して筑前に入る。

 享保20年(1735年)、廬元坊は新潟を訪れる。4月、鶴岡の柳下斎風草を訪ねる。6月、鶴岡から 象潟 へ。本荘の常覚寺に英義を訪ねる。

有耶無耶に清水たずねん村烏

象潟やもろこしの秋を橋隣

 享保21年(1736年)、支考七回忌追悼句集『渭江話』(廬元坊編)。

 寛保2年(1742年)、再び新潟を訊ねる。

延享4年(1747年)5月10日、57歳で没。

 寛延2年(1749年)5月、廬元坊の三回忌に 俳諧国見酒』 (桴仙選)許虹序。

 宝暦5年(1755年)3月、近青庵北溟は 俳諧伝灯塚 を建立。



五月雨の夕日や見せて出雲崎
   東華坊

荒海や佐渡に横たふ天の川
   芭蕉翁

雪に波の花やさそうて出雲崎
   盧元坊

 宝暦9年(1759年)4月、廬元坊の十三回忌に斜日堂連中は 「三世塚」 建立。



牛呵る聲に鴫なく夕へかな
   梅花坊

古池やかはつ飛こむ水の音
   芭蕉翁

住み飽た世とは嘘たり月と花
   廬元坊

 明和9年(1772年)、楊柳舎以文は俳諧三祖塔を建立。『俳諧三祖塔』刊行。この「俳諧三祖塔」は現存しない。

 安永7年(1778年)より8年(1779年)の春までに肥後宇土の 円応寺 に四考塚を建立。


 背面に盧元坊の「不知火や浪の錦は闇とても」という句が彫ってあったと伝えられている。

 天明6年(1786年)3月12日、鳳明社白翁は岡山の 少林寺 に三翁碑建立。



芭 蕉 翁

右側面に「獅子老人」、左側面に「先師廬元」と刻まれている。

 寛政6年(1794年)、遊字庵些兮(さけい)秋葉山円通閣の隣地に 「俳諧三祖塔」 を建立。

「盧元法師」


 寛政12年(1800年)2月、 発句塚 建立。



住みあいた世とは嘘なり月よ花
   仙石庵廬元坊
名月やことしの影はことしとて
    田中五竹坊
しづけさや芭蕉にかかる雨の音
   岡田冬恕坊

 文化3年(1806年)3月、 野村白寿坊「永観堂連塔」 を建立。

第三世 仙石廬元坊


住倦いた世とはうそなり月と花

 文化4年(1807年)10月12日、第七世雨岡庵古梁坊は北方町の 西運寺 に「蘆元法師」の碑を建立。



碑陰に廬元坊の句が刻まれている

鶯にとはるゝまてそかさり竹

山県市の 洞泉寺 に廬元坊の句碑がある。


うぐひすのいくつも捨てはつ音かな

関ヶ原町の 美濃不破関跡 に廬元坊の句碑がある。


名月や山も谺に起とをし

防府市の 玉祖神社 に廬元坊の句碑がある。


住倦た世とはうそなり月よ花

 福岡県吉富町の 天仲寺公園 にある美濃派の句碑に「住倦いた世とは嘘なり月よ花」の句が刻まれている。

廬元の句

大名も牡丹にあそぶ薄着かな


桐の葉の捨て見せたる団扇哉


また風の薫りや峯ハ兀なから


文塚の名に通ひてや浦千鳥

『文塚』

   芭蕉翁蓑笠像讃

月雪のさひしさつたへて蓑と笠


涼風や蚶か入江を連れあるく


舞の手に神はおたち歟散銀杏


鶯のいくつも捨て初音かな


灯を見せて鳴せん森の子規


山の眠り覺すや堂の朝御帳


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