翁毎曰俳諧無古人豈無古人耶有宗鑑有守武貞徳傳貞室難波
|
宗因起一風其謂無古人者無古人以爲準則也雖然附襲都運連
|
歌之情而誹言連語之差別耳無姿則無其意之可以學道俳諧謂
|
無古人也亦宜于茲天和昔者芭蕉翁桃青初詠古池蛙飛句正風
|
體之眼而采於史之滑稽傳誹改俳我朝始爲俳諧元祖二世東華
|
坊才學通傳著述不倦辨滑稽之奥義補其法格而爲萬世之龜鑒
|
三世盧元坊東往西遊而教誡蕉門通志之人二十年于此矣當是
|
時俳諧之道可謂全盛今也幸我郷以有三師之遺詠刻于石者譬
|
如水之在地中無所往而三師之神不在也故吾輩深信而稱俳諧
|
伝燈塚 于時寶暦五年乙亥三月十二日近青菴北溟謹誌
|
大正11年(1922)3月、佐藤吉太郎建立。
佐藤吉太郎は俳号耐雪。
大正14年(1925年)8月22日、
荻原井泉水
は出雲崎を訪れて佐藤耐雪から話を聞いている。
いにしへに変らぬものはありそ海と
むかひに見ゆる佐渡の島なり
良寛もこう詠っている、前面は、海へじかに接している。で、町は山と海との間に挿まれて細長く、東北から西南へ、一すじに伸びている。石を載せた板屋根の低い家が多く、町というよりも、漁村という感じを多く受けるが、昔は、羽越の海岸としては、七尾、酒田と併称せられたほどの物資の集散地であり、殊にここは幕府から直接の代官が置かれてあったので、一つの文化の中心をなし、従って文人墨客の杖を曳くものが絶えなかったのだ。そういう話を私達はこの地の人、佐藤耐雪氏から聞きながら、町裏のとある小高みの丘に案内されていたのだった。
妙福寺
日蓮宗
の寺である。
昭和40年(1965年)、
山口誓子
は妙福寺の句碑を訪ねた。