このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道


史跡 中山道赤坂宿

大垣市赤坂町は中山道赤坂宿。


 熊坂長範は美濃国赤坂で鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた 牛若丸 に討たれたという。

赤坂の宿はむかし熊坂の長範が、源九郎義經にうたれし處也。


史跡 中山道赤坂宿


東 美江寺へ2里8町

西  垂井 へ1里12町

 近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ131里の道程に69次の宿場があり、美濃赤坂宿は57番目に当たる。

 大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。

 町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。

 東西に連なる道筋には、 本陣 、脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べて繁盛していた。

   昭和59年3月

 史跡赤坂宿環境整委員会
 大垣市赤坂商工会
 大    垣    市

 貞亨5年(1688年)6月7日、芭蕉は赤坂宿に泊まっているようである。

祖翁の日記 自筆にて三行ばかり 六月六日大津を立、ゑち川に泊、七日赤坂に一宿、八日岐阜に到る。秋芳軒宜白を主とすと云々。

『芭蕉翁略伝』 (湖中著)

赤坂宿には 谷木因 門下の俳人矢橋木巴がいた。

 芭蕉は木巴亭に泊まり、風呂行燈に「 葛の葉の表見せけり今朝の霜 」と落書きしたと伝えられているそうだ。

  『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄四未とし」として「葛の葉のおもてなりけり今朝の霜」を収録する。

 元禄4年(1691年)10月9日、森川許六は彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。17日、日中に赤坂宿に着き、夜半に立っている。

赤坂 に日たかくつきぬ。ふる里の山どもにちかづきぬれば、見しりたる人にあふ心地ぞする。

樽井、赤坂あふしか、野上などいふ所は、いにしへ遊君のすみけるといへど、いまは名もなき所よりは、あさましく成行けり

        なき遊君の事とはん
(を)し鳥よ垂井赤坂君も見ず


 享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は赤坂宿に入る。

赤坂の駅に入れば、戸田家采女正の領分大垣より足軽二人出してさきをおはしむ。左に谷汲観音道あり。これより左右ともに田のみにして、山は雨雲へだてゝみえず。


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