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中山道
『岐蘇路記』
(貝原益軒)
木曾路之記
上
・
下
○
上松
より須原へ三里九町、上松の民家八十ばかり。此邊の景ことにすぐれたり。町より少行て諏訪大明神の鳥居あり。それよりさきに
寝覺のちや屋
あり。上松の町より此ちや屋まで十四五町あり。半里には近し。茶屋よりわき二町程西へ行て、臨川寺といふ禅寺あり。其うしろに浦島がつりせし
寝覺の床
あり。寺よりみゆる岩間をつたひてねざめの床にくだる道あり。其道はなはださがし。ねざめの床は木曾川のきはにあり。大なる岩なり。岩のよこ十間、長四十間ばかりあり。其高き所に、辨才天のちいさき社あり。其一段ひきゝ石の上、平なる所、取分てねざめの床と云。其大岩の岡のごとくなるもの、幾許といふ事をしらず。其上平なり。東の方は河原のごとくにて大石あり。水なし。西は木曾川ながる。ねざめの床の大岩は、西の方木曾川にのぞみて、其石岸屏風を立たるが如し。むかへにも大岩あり。兩岸の間水のはゞ二間、或は三間、瀬ありて瀧のごとくみなぎりながる。大河かくのごとくせばくながるゝゆゑ、ふかき事はかりがたし。其兩岩のせばき所、長五十間ばかり有。上の水の落口の岩を上﨟岩といふ。河中にまな板石とて、一の石あり。川むかひの大岩の上に三の穴あり。一の大なるを大釜と云。二の小さきを小釜と云。皆そらにむかへり。むかひに屏風岩とて、屏風を立たるごとくなる岩あり。向の大岩の下のはしに、 たゝみ岩とて、畳のごとくなる岩あり。又ゑぼし岩とて、ゑぼしに似たる岩有。其前に川のこなたに平岩あり。平岩の上に黒岩あり。其黒岩を象岩といふ。川むかへに岩山あり。其山に檜・樅・栂・松などしげりてうるはし。およそ此地は他所のすぐれたる風景にもこえて、奇妙なる風景なり。いつくしく潔事、心にしるしがたく、ことばにものべがたし。浦島が事、日本紀・雄略帝紀、並びに扶桑略記に見えたり。此地にいたりし事は見えず。又むかし木曾のねざめの床に、三歸の翁といふものありて、長生の藥を人にあたへし事を三歸といへる世俗の謡に作れり。又飛雲といふ謡に、木曾山中にて三熊野の山ぶし、あやしきものにあひたりしことを作れり。慥
(たしか)
なる書に見えざれば、二ながら信じがたし。ねざめの茶屋を過て少ゆけば、なめ川の橋とて、大なる橋あり。左に小野の瀧あり。 見事なる瀧なり。細川玄旨の老の木曾越といふ紀行に、木曾路小野の瀧といふは、布引・箕面などにもおさおさおとりやはする。是程の物の、此國の歌枕にはいかにもらしたるにやとかけり。
寝覚の床
○須原より野尻へ壹里卅町、此所元祿のはじめ大水にて、今井の邊くづれて道かはる。須原の町家數八十ばかり、大きにして長き橋あり。大島村より五六町行て、關山の橋、坂の上にあり。かけはしなり。むかし此所に關あり。故に關山といふ。此間今井と云所有。今井の四郎兼平住せし所也といふ。
○野尻より三留野へ二里半、野尻家數五十許。荒田村より十町程行、かてい坂あり。其先に橋二あり。一は欄干あり。たてんのはしといふ。凡信濃路は皆山中なり。就中木曾の山中は、深山幽谷にて、山のそばづたひに行がけ路多し。殊更野尻と見とのゝ間、尤あやうき路なり。此間左は山也。其山のかたはらのわづかなる石おほき道を行。右は數十間高きがけにて、屏風を立たる如なる所もおほく、其下は木曾川の深き水也。此間かけはし多し。まへにある名を得し木曾のかけはしよりあやうし。いづれも川の上にかけたる橋にあらず。そは道のたえたる所にかけたる橋なり。かやうのかけはし、唐繪などに多し 他國にはかやうのかけはしまれなり。山の尾崎をいくらもまはりて、谷口へ入、又先の山の尾をまはる所多し。あやふき事甚し。此間に中柄といふ所あり。其むかひに垣反と云所有。其所より谷川ながれ出。むかひとこなたと兩岸に大岩有。ことに好景なり。又其下左の方に、横河戸と云所に、谷川おくより流出。橋有。横河戸のはしといふ。又かけはし有。曲尺
(かね)
のごとくまがりてかけたる橋也。谷川の奥に横川といふ村あり。凡此山中の橋、かけはしを尾州君よりかけ給ふに、其ついゑ甚多しといふ。
○三留野より妻籠へ壹里半、三留野に民家六十軒程あり。
○妻籠より馬籠へ二里、妻籠の西の出口の橋より前に、左に行道あり。清南寺越と云。これより清南寺と云所に六里あり。清南寺より伊南へ行道甚嶮難なり。伊奈より米を美濃・尾張へ出す道也 又是より伊奈へ行、大門嶺を通り、飯盛山の下を過て窪田へ出る。妻籠より木曾川西北の方に遠く流れ、道は東南に行て、妻籠嶺をこゆるゆゑ、木曾川を右に遠くみる。是よりはじめて木曾川遠くなる。妻籠嶺をこえ、馬籠にくだれば、木曾の山中を出る。此間の坂、木曾の御坂なり。俗には馬籠嶺と云。又風越の峯も此の邊ならん。其所分明ならず。いづれも名所也。木曾路も、木曾のかけはし、木曾路川もみな名所なり。いづれも古歌多し。凡木曾の山中、熱川より馬籠まで廿一里有。木曾の谷は其水南にながれ、 大河にて、石大に水早し。故に船なく魚すくなし。谷中せばきゆゑ、田畠まれにして、村里すくなし。米・大豆は松本より買來る。山中に茅屋なくして、皆板葺也。寒氣はげしきゆゑ、土壁なし。みな板壁なり。凡信濃に、竹と茶の木まれ也。寒甚きゆゑ、植れ共かるゝ。他國にて竹を用ゆる物には、皆木を用。就中桶の箍には、檜木を用。茶は他國より買來る。野尻より下には、竹と茶の木少見えたり。野尻より東、碓日嶺までの間には見えず。野尻は地漸ひきくして美濃に近く、川上より少暖なる故也。又信濃に蜜橘・柑
(くねんぼ)
・金橘
(きんかん)
・木練
(こねり)
・木淡
(きざは)
しなし。是皆寒氣ふかきゆゑなり。麥は六月に熟す。山中櫻花多し・山にも桃・紅梅有。三月の末比みな一時にひらく。又當國には、ふじ・松とて、冬は葉のことごとく落る夏木の松あり。落葉松と云。
○馬籠より美濃國落合へ壹里、馬籠の民家廿七八軒許。わづかなるいやしき町なり。落合の東の入口、釜が橋といふ有。是信濃の安曇郡と美濃のさかひ也。是より東は木曾也。木曾は安曇郡なり。凡信濃は、東は上野。南は甲斐・遠江・三河。北は越後・越中・飛騨。西は美濃なり。凡八ヶ國に隣る。國のながさ、うすひ嶺より美濃境まで、東西四十七里餘あり。
○落合
美濃國恵奈郡是より以下美濃
より中津川へ壱里、落合の民家九十軒許。これより西に 猶坂所々にあれども、既深山の中を出て、嶮難なくして心やすくなる。木曾路を出て爰に出れば、先我家に歸り着たる心地する。唐の詩人雍陶が、西歸出斜谷詩に、行過嶮棧出褒斜。出盡平川似到家。無限客愁今日散。馬頭初見米嚢花。と作りしが如し。落合の南なる大山を横長嶽と云。しげ山也。苗木の城北にみゆる。小たかき山の上にあり。木曾川城南をながれ、飛騨川北にながる。今は遠山和泉守殿居城なり。領地一万五千石附。落合と中津川の道より北に、ねざめの里あり。名所也。一説に、杭瀬川の上、中森といふほとりのよしいへり。
○中津川より大井へ二里半六町、中津川の町、民家二百餘あり。根津の甚平が石塔あり。
○
大井
より大久手へ三里半、大井の民家百廿軒程あり。中野村より左へ尾州名護屋へ行道あり。是直道にて谷へ下りゆく。大久手は右へわかれ、北の方へ行間に
西行坂
とて坂あり。西行が墓あり。
○
大久手
より細久手へ壹里半、大久手の家三十四五軒許。大久手、細久手、いづれもいやしくあしき小なる町なり。此間に琵琶坂とてあり。此坂の上より、艮の方に木曾のみたけみゆる。北に加賀の白山よくみゆる。白山は太山なるが、麓まで雪あり。是日本三番の高山なり。飛騨の山あひよりみゆる。又此地より西に伊吹山みゆる。
○
細久手
より御嶽へ三里、細久手の家五十許あり。
○御嶽
可兒郡
より伏見へ壹里、御嶽の民家百三十軒程あり。町のたつみの方の小山に、蔵王権現の社あり。吉野の蔵王を勸請しけるにや。吉野山を御嶽といへば、此宿をみたけと名付たるならん。御嶽の町の東のはづれより、西の方道すぢに、初て並木の松有。東海道の如し。是より東には道すぢに並木の松なし。御嶽より西は平地なり。是より東はすべて山里なり。町の西はづれの方に、可兒の大寺とて、大なる藥師堂有。此邊可兒郡なれば、かく名付けらし。此あたりかやうの大寺はめづらし。寺領百石公儀より附。
○伏見より太田へ二里、伏見の町民屋四十許有。町より左に名古屋へ行く道有。太田の宿の東のきはに太田川あり。船渡なり。木曾川の下也。船にてわたる大河なり。水急也。早き瀬多し。太田より一里川上、河合と云所にて、木曾川、飛騨川ひとつに落合なり。飛騨川も大河なれども、木曾川よりほそし。太田川の下尾越川なり。太田川より東の方可兒郡也。伏見の近邊金山の城あと有。信長公の臣森三左衛門、同武藏守居城なり。
○
太田
より鵜沼へ二里、太田の宿家數二百五十軒程有 太田の宿の上まで船着て、木曾より出る薪などをつみてくだす。太田よりたつみの方に土岐有。名所也。古歌有。むかし美濃の土岐氏住所也。太田より名古屋へ九里あり。太田より一里北に蜂屋といふ所有。此邊の村々より柿を持てはちやへ出るを、けづりてつり柿とす。美濃のつるし柿は此邊より出る。蜂屋柿と云。蜂屋に町なし。美濃紙は太田の北乾にある武藝郡より多く出る。武藝郡の内、いぢらの谷とてひろき谷有。此邊より誠に多く出る。尾州君の御領内なり。關は太田の北二里半にあり。ひろき町也。岐阜につげり。商人多し。山中諸方より買物に出る所也。むかしより鍛冶多し。小刀鍛冶もおほし。今十四五人住す。郡上は其北也。郡上の内八幡といふ所に、遠藤信濃守殿居城あり。關を通り行也。太田より八幡へ十一里あり。郡上は山中なり。高三萬石餘あり。太田の坤に向山とて山有。其北の下、山ぎはを木曾川ながる。取組といふ村より又木曾川に添て道筋有。其先の西に有山をならいと云。又かん坂とも云。山のそはのがけ道を通る。かけはし二所也。危し。左の下は木曾川ながれ、川邊の岩多くつらなりて見事也。好景也。其河瀬に上より薪をつみたる舟おほくくだる。急なる故、舟のくだる事飛ぶが如し。是又よき見物也。其西にうとう坂とも長坂とも云坂あり。 其西のふもと即鵜沼也。木曾より太田迄の間の農人、すき一つを兩人にて取て田をすく。他所にて見ざる事也。すきのゑは木の枝のごとし。是グウ
(「耒」+「禺」)
耕なるか。
○
鵜沼
より加納へ四里十町、鵜沼の町、家數七十許有。鵜沼の南の方に
犬山の城
ちかくみゆ。其間十町ばかりにみゆる。まはりて行ゆゑ一里有と云。成瀬隼人正の居城也。犬山の城の北のきはを木曾川ながる。後拾遺集、東の方へまかりけるに、うるまといふ所にて、源重之、「東路にこゝをうるまといふことは行かふ人のあればなりけり」とよめり。昔よりうるまといひけるにや。犬山より南の方小牧へ三里。小牧はなごやへ行道にて馬驛也。犬山と小牧の間に樂田といふ所有。犬山より南一里半。小牧の北一里半に有。馬次の宿にはあらず。これも道筋にて町すこし有。小牧も樂田も、秀吉公の時の陣所也。小牧より名古屋へ三里有。鵜沼よりなごやへは七里あり。鵜沼より西の方には道中に籃輿
(かご)
あり。 是より東江戸日光迄の間には籃輿なし。但上州の坂本のみ籃輿少有。是はうすひ嶺あるゆゑ也。鵜沼の西のはづれより西に廣き野有。各務野と云。此邊各務郡なるべし。野の北に各務と云村あり。各務野ひろさ三里四方有と云。但東西は三里ばかり。南北一里半程にみゆる。此野に田畠なし。たゞ青草のみ生ず。野の南に三井山と云山あり。其山の南木曾川のきはまで野有。新加納は加納の東一里半に有。小なる町有。鵜沼より加納への道也。是慶長五年岐阜の勢と味方の諸大將と合戰の所なり。
犬山城
○
加納
安積郡
より合渡へ一里半、加納の町長十八町程有。今は安藤右京進殿居城也。加納より西は平田にて野原なし。故
(かるがゆゑ)
に馬の草なし。田畠にれんげ花といふ草を植て馬の草とす。此花筑紫にては寶藏花と云。又きりて田のこやしとす。是より名古屋へ八里、岐阜へ一里あり。岐阜は是より北にあたる。岐阜へよるはわづかに一里あまりのまはり也。岐阜の町は人家多くしてひろき所也。富る商人多く、にきはし。岐阜に稲葉山あり。名所なり。古歌おほし。行平の、立わかれいなばの山とよめるも此山なりといへども、因幡守の時の歌なれば、因幡の國の山なるべし。此いなば山にはあらじ。ふもとに因幡の明神有。大社なり、宮殿美麗也。此地の景、京都の清水より西山を望によく似て景よし。すべて此山の景甚よし。岐阜の地最佳處也。京都の風景のごとし。土地も小石まじりて京都の地のごとし。岐阜の山をすべていなば山といふといへども、就中因幡の社の上の山也。峯に松多し。岐阜の周の岐山になぞらへて名付しと也。昔齋藤龍興が城也。其時までは稲葉山と云。信長公うつり給ひてより岐阜と云。厚見郡也。
信長公の城あと
はいなば山の北にあり。城の大手は西向なり。城山高し。山上に千疊敷の跡有。城下に今に湟の残りたる所有。町の外廓に土手あり。湟あり。信長公の時の城のかまへなり。信長公ははじめ爰に居城し給ひしが、天正四年近江の安土の城に移給ふ。其後信長の嫡子、織田城介信忠の子、中納言秀信、此城に居住し給ひ、岐阜中納言と稱す。慶長五年石田三成に與して、此城東國方の諸大將のために責落さる。岐阜の西の川を長柄川と云。川上に長柄といふ村あるゆゑ也。岐阜の西の少上より、河ふたつにわかれてながる。岐阜の方にながるゝは枝河にてほそく、西の方をながるゝは本河にて大なり。岐阜の方へは舟のぼらず。兩方ともに長柄川と云。合渡の十町ばかり川上、梅が寺の少上にて兩川一に合てながる。故に合渡と云。上のわかれしみなまたより、下の流合所まで一里許あり。其間は中島にて七村有。岐阜より合渡へ行には、長柄川にそふてくだる。此川に鮎
(※「魚」+「條」)
多し。舟にのりて鵜をつかふ。此池の鮎江戸へも献ず。慶長五年關原陣の前、八月廿三日岐阜の城を攻し時、 大柿の城より敵出てすくはんとして、合渡の川の西まで寄來りけるを、御方の諸大將川をわたして敵を追くづしける。合渡の宿のにしに、なまつといふ村有。敵此ところにおほくひかへ居たりと云。合渡川は舟渡し也。深さ十尋
(とひろ)
にあまると也。我此川をわたる時、舟の上にて三間の竿をさすにとどかず。川のながれはしづかなり。洲の股川の河上也。岐阜より合渡へ三十町ばかり、西南に行て加納の道に出、やがて湊の町にいたる。岐阜の北に席田
(むしろた)
といふ所有。郡の名也。名所也。又岐阜の北三里許川上に、岩田の小野あり。名所なり。
岐阜城
○合渡より美江寺へ一里六町、合渡の町家數三十四五軒ばかりあり。いつぬき川此間に有。名所也。古歌多し。席田のいつぬき川とよめり。席田の郡より出る川也。本田と云村の邊なり。大河にはあらず。里の人はいとぬき川と云。
○美江寺より赤坂へ二里八町、美江寺の町家數六十許あり。美江寺の北半里に、
眞桑村
有。此地よき瓜の多く出る所也。眞桑瓜と云。其瓜は黄色にて青筋有。小瓜なり。只一種なり。 むかしより毎年瓜の時、江戸へ献上す。眞桑に町なし。松林の少ある所也。大道よりみゆる也。谷汲は美江寺より五里北に有。名所也。千載集に歌あり。山中にて谷ふかく道さかし。順禮の札を打をさむる所、第三十三番の觀音あり。呂久村に呂久川とて大河有。くいぜ川とも云。舟渡し也。合渡川よりは小なりといへども、水深くして川の流早し。飛騨山の方當國の郡上より出る川也。此半里下を佐渡川と云。佐渡村は川の西に有。佐渡川の東に結村有。大柿より洲の股へ行道ばたの北に小社有。結の神といふ。名所也。古歌多し。是も呂久より半里下也。池尻村此間にあり。
○
赤坂
より垂井へ一里十二町、赤坂の北虚空藏山に
虚空藏堂
有。
赤坂の宿
はむかし熊坂の長範が、源九郎義經にうたれし處也。慶長五年、東方の御本陣岡山は赤坂の南に有。ひきゝ山なり。大垣の方よりは北にみゆる。此時勝山と名を改させ給ひてより、今もかち山と云。其南に今も御殿有り。青墓はむかしは垂井・赤坂と同く宿驛也。今は小里なり。町なし。名所也。古歌有。長者が屋敷の跡とてあり。朝長の社は、青墓の西の道より北のおくに有。海道より四五町ありと云。朝長八幡と云。其北の山上に
朝長の墓
あり。青墓の西に青野村あり。其西は青野が原也。名所也。古歌有。熊坂の
長範が物見の松
とて大なる松有。赤坂よりゆけば南にみゆ。大垣より行ば北にみゆる。
垂井の少前
に川有て、大垣の道と、赤坂の方、木曾路の筋へゆく道と、ちまた是よりわかる。
○
垂井
より關原へ一里半、垂井の近所に小島といふ所有。兼良公の藤川の記に曰、文和の比、後光厳院、南軍をおそれましまして、小島に行幸有し次に、民安寺と云律院にわたらせ給ひけるとなん。二條良基の小島のすさびと云書も、此時供奉せられし事をしるし玉へり。足利義詮も、此時小島の皇居を守護せらる。垂井も名所也。古歌有。垂井の宿の南に南宮山あり。美濃の中山とも云也。不破の中山とも云。南宮のうしろにもひろき谷有。兩の谷の中にあるゆゑ中山と云。又御社山とも云。南宮の社有ゆゑなり。
社
は山の麓に有。大社なり。東にむかへり。鳥居有。垂井の町中の南にあり。その額に正一位勲一等金山彦大神とかけり。社僧十二坊、社人十二人あり。其外小なる社人おほし。社領三百石、公儀より御寄附と云。關が原陣のとき、安国寺爰に陣せしが、此宮を焼はらひける。其後大猷院公の御時、御建立あり。今其時のまゝ也。多岐山は南宮山の東南にあり。高山にて長し。伊勢の多度山につゞけり。尾越の方よりみれば、西にながくつゞきたる高山也。
養老の瀧
は、美濃國當耆多度山にあるよし、續日本紀に見えたり。多度山のたかき所の少南の谷に有。其下にひろき野あり。其ひろき野の上也。山に道ある所也。栗原山は南宮山の東のはし也。南宮山につゞけり。少ひきし。其下に栗原村有。關が原陣のとき、長曾我部土佐守陣せし所也。野上の里名所なり。古歌おほし。今は民家少有。垂井と關が原の間也。其南に鶏籠の山とて有。野上の西に桃くばりと云野原あり。小家二三軒ある所の少東也。天武帝も野上に陣し給ふ。
養老の滝
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