このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道中山道


中山道鵜沼宿町屋館

各務原市鵜沼西町に「中山道鵜沼宿町屋館」がある。


中山道鵜沼宿町屋館


 由来

 当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和30年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成18年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。

 屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの3棟からなります。主屋は、明冶24年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

 3棟とも、 登録有形文化財 に登録され、景観重要建造物に指定されています。

 明和8年(1771年)9月2日、諸九尼は鵜沼宿に泊まっている。

飯田より新道といふ難所をこえて、やうやう九月朔日美濃路に出づ。多久手、鵜ぬま、垂井にとまる。


 享和2年(1802年)3月26日、太田南畝は鵜沼宿に入る。

板橋ある川をわたりて鵜沼の駅にいる。駅のうちに溝ありて道をわかてり。又宇留馬の駅ともいふ。源重之が、あづまぢにこゝをうるま、とよみし所也といふ。駅の長出て、よべの雨に行先の川水出て道ふさがれり、しばらくこゝにいこはせ給はゞ、その所みに人つかはし置たる便しるべきといへど、とまれかくまれ、ゆくべき所までゆかんといひてゆく。


 嘉永6年(1853年)5月14日、吉田松陰は江戸に行く途中、 大垣 から鵜沼に至る。

切通に至り、岩城の陣屋に過りて、和田萬彌を訪ひ、鵜沼に至る。大垣よりここに至るまで、皆平坦の地なり。


 文久元年(1861年)10月27日、 皇女和宮 は昼休憩のために鵜沼宿本陣に立ち寄り、 太田宿 に宿泊した。

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