このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

中山道加納宿〜皇女和宮の歌碑〜
indexにもどる

JR東海道本線岐阜駅を南に歩くと、「中山道加納宿」の案内板があった。


あなたが立っている道は、五街道の一つ、 中山道 です。

加納城下町の建設は、関ケ原の合戦から半年後の慶長6年(1601年)3月、10万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、城下町を整備したことに始まります。

その後、寛永11年(1634年)には中山道の宿場に定められました。

城下町であり宿場町でもある加納宿は、21の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。

宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と交わっており、交通に要になっていました。

旧中山道を行くと、「中山道加納宿脇本陣跡」の標柱があった。


もう一つ「中山道加納宿脇本陣跡」


さらに行くと「加納宿西問屋跡」の標柱があった。


享和2年(1802年)3月25日、 太田南畝 は加納に泊まる。

やうやう加納の驛につく。城下長くして人家多し。左の方に城ありと見ゆ。右に寺二ッ左に寺一ッ社一ッみゆ。竹屋□□□が家にやどる。夜にいりて雨はれたり。宿のさまきよらかなり。床に月僊の畫る山水圖あり。襖の畫も山水なり。あるじに問ふに月泉の弟子の畫かけるなりといふ。

『壬戌紀行』

国道167号(加納中通り)の角に中山道加納宿本陣跡がある。


加納宿本陣跡に皇女和宮の歌碑があった。


遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり

平成14年(2002年)6月吉日、中山道加納宿文化保存会建立。

 仁孝天皇の皇女  和宮 親子(ちかこ)内親王は将軍徳川家茂(いえもち)との結婚のため、文久元年(1861年)10月20日京都桂御所を出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。

 同年10月26日当地加納本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。

   遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり

 この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収めらており和宮の直筆である。

 本年は中山道宿駅制度が設置されて400年記念に当り、幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください