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私の旅日記
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2014年
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臨川寺
〜寝覚の床〜
上松町寝覚の国道19号沿いに臨川寺という寺がある。
寝覺山臨川禪寺
臨済宗妙心寺派
の寺である。
境内に芭蕉の句碑があった。
芭蕉翁
ひる顔に昼寝せふもの床の山
出典は
『韻塞』
(李由・許六共編)。
「
東武吟行のころ、美濃路より李由が許へ文のを
(お)
とづれに
」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)、彦根から岐阜へ向かう途中で
李由
宛てに詠まれた句。
明和7年(1770年)8月、羽前新庄金山連中建立。
大正15年(1926年)9月22日、
荻原井泉水
は臨川寺で芭蕉の句碑を見ている。
臨川寺の境内には句碑の二三がある。その一つに
ひる顔に
芭蕉翁 昼寝せうもの
とこの山
裏に「明和七年庚申八月、羽前新庄金山兩連中」とある。
寝覚の床の対岸にある小い丘を「床の山」というので、その因みからこの句を彫ったものであろう。
『随筆芭蕉』
(木曾路の一日)
宝永5年(1708年)4月、各務支考は木曽から越後へ旅をする。
比は卯月の廿日あまり。木末は花の春をとゝめながら、谷の戸はいまだ雪にぞとざせる。彼うら島が寢覺の床とやらんは、此木曾川の勝絶なるべし。
鶯のねさめや四月五月まで
『夏衣』
延享2年(1745年)4月13日、
横井也有
は第八代尾張藩主宗勝公のお供をして江戸から帰る時に臨川寺に立ち寄っている。
臨川寺にいらせ給ひて、寐覚の床御覧ず。爰に筏士のさまざま自由をえたるを、めづらしき物にめでさせ給ふ。いかばかり吹と、とふべき折にもあらず。
ちる物ハなくて筏に青あらし
『岐岨路紀行』
横井也有の句碑があった。
筏師に何をか問む青あらし
巴笑・福島連中建立。
明和9年(1772年)7月29日、平橋庵敲氷は美濃行脚の途中で臨川寺を訪れている。
寝覚の里臨川寺 に逍て聞ふる勝景を望むに、童のさかしきか欖前に指さして名あるかきりの景ともかたり聞ゆるに、息継あへす口として耳にとゝまらぬも又興あり
鹿はまた聞す寝覚の山おろし
『鶉日記』
昭和14年(1939年)5月7日、
種田山頭火
は也有と芭蕉の句碑を見ている。
(寝覚の床の句碑二つ)
筏士に何とか問む青あらし
也有翁
ひるがほに昼寝せうもの床の山
芭蕉翁
l『旅日記』(昭和十四年)
正岡子規の句碑
もあった。
白雲や青葉わかはの三十里
碑 陰
子規居士木曽路の旅ハ明治廿六年六月であつた。臨川寺を訪ひ寐覚の床を詠賞した居士の句ハ馬籠峠から來し方を顧望した作で、今年ハ三十五回の子規忌に當るので碑を建て句を勒して記念とする。昭和十一年九月
下伊那 北原痴山書并建
昭和11年(1936年)9月、子規の三十五回忌に北原痴山建立。
妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇河に別れ行く。何となく名残惜まれて若し水の色だに見えやせんと木の間木の間を覗きつゝ辿れば馬籠峠の麓に来る。馬を尋ぬれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら上りつめたり。此山を越ゆれば木曾三十里の峡中を出づるとなん聞くにしばしは越し方のみ見かへりてなつかしき心地す。
『かけはしの記』
臨川寺から坂を下り、寝覚の床へ。
中央アルプス県立公園「寝覚の床」
「寝覚の床」は、木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月にわたって浸食してできたもので国の史跡名勝天然記念物に指定されています。
岩盤に見られる水平方向と垂直方向に発達した方状節理(割れ目)やポットホール(欧穴・対岸の岩にあいた丸い穴)は、日本でも代表的なものです。
また、俳人正岡子規が「誠やここは天然の庭園にて……仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったこの絶景は、古くから浦島太郎の伝説の舞台としても有名です。龍宮城からもどった太郎は、諸国を旅してまわり、途中で立ちよった寝覚の床の美しさにひかれて、ここに住むようになりました。
ある日、昔を思い出して岩の上で玉手箱を開けてみたところ、中から出てきた煙とともに、見る見る太郎は300歳の老人になったと言い伝えられています。
岩上の松の間にある小さな祠は、その浦島太郎をまつる“浦島堂”です。
上松町
宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は松島遊覧の途上、寝覚の床を見ている。
寐覚の里なる「寐覚の床」といへるは、さしもの木曾の川せまりて、岩こす浪の色目さまし。
『松しま道の記』
宝暦13年(1763年)4月19日、二日坊は寝覚の床を訪れている。
臨川寺に浦嶋太郎か釣舟石、寝覚の床と名つくる嶋ハ、工ミになせる假山のことし
『みち奥日記』
安永8年(1779年)、横田柳几は筑紫からの帰途に寝覚の床で句を詠んでいる。
信州寝覚の床 にて
啼にけりねさめの床の片うつら
『布袋庵句集』
安永9年(1780年)3月14日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、寝覚の床を訪れている。
臨川寺の庭に寐覚の床を案内し見するに、雨の降いでゝわびし。
『東遊紀行』
享和2年(1802年)3月29日、太田南畝は臨川寺の童の案内で寝覚の床を見ている。
寺の童の案内して、浦島寝覚の床を見よといふ。かの松のもとより岸にのぞみて見おろせば、大きなる岩あり。岩の上に松生ひしげりて、弁天の小社有。床岩・象岩・まないた岩・屏風岩・獅子岩・たゝみ岩等おのおのその形ありといへど、ことごとくは見わかず。
『壬戌紀行』
文化13年(1816年)、
十返舎一九
は寝覚の床のことを書いている。
此ところに臨川寺といふ景地あり。寐覺の床といふこれなり。むかし浦島太郎釣をたれし所なりと云傳ふ。
浦嶋もかゝるけしきの寐覺には小便よりもつりやたれけん
『
岐曾街道
續続膝栗毛』(七編下巻)
嘉永6年(1853年)5月17日、吉田松陰は江戸に行く途中、臨川寺に立ち寄っている。
上松驛前、寝覺山の臨川寺は名甚だ鋪
(しれわた)
る、因つて過り視る。
『癸丑遊歴日録』
明治26年(1893年)6月、正岡子規は臨川寺に到り寝覚の床を見ている。
上松を過ぐれば程もなく寝覚の里なり。寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。其傍に押し立てたる岩を屏風岩、畳みあげたるを畳岩といふ。
『かけはしの記』
明治42年(1909年)5月8日、河東碧梧桐は臨川寺を訪れている。
けさから九里余の道をあるいて、疲れた足を引きながら葵の紋のついた幕を潜って、臨川寺の庭にはいった。寐覚の床をを遙かの谿に瞰下ろしながら、岩も水も総てが直線趣味であるなどというておると、一人の小僧が如何にも馴れ馴れしげに、案内しましょうかというて来た。こういう寺には有り勝ちな、少し頓狂な然も悧発な小僧である。
『続三千里』
大正9年(1920年)5月27日、
若山牧水
は臨川寺を訪れた。
此処のながめも夙うから写真などで見るところでは私の好みに近さうにも思はれなかつたので大した期待も持つて来なかつたが、先づそれが正しかつた。寝覚の床それ自身よりもそれを見下す臨川寺といふのゝ位置の方が面白からうと想像してゐたのも当つた。私は唯だその寺の庭さきから例の岩床と迫つた水の流れとを遠く見下したにとゞめて下には降りてゆかなかつた。降りて遊んでゐる旅人らしい人影は沢山に見えた。私と前後して上松の町から歩いて来た西洋人の夫婦らしい人もその寺の庭隅から急な坂を降りて行つた。
「木曽路」
昭和11年(1936年)10月、
斎藤茂吉
は寝覚の床を訪れている。
寢覺の床
渦ごもり巖垣淵
(いはがきぶち)
のなかに住む魚をしおもふ心しづけさ
白き巖
(いは)
のひまにたたふる深淵の湧きかへるものを見すぐしかねつ
『曉紅』
昭和14年(1939年)5月7日、
種田山頭火
は臨川寺から寝覚の床を見ている。
十一時、上松町に着く、そこから半里位で、名だゝる寝覚の床、臨川寺からの眺望はすぐれてゐる、娘の子が二人せつせといたどりを採つてゐた。
或るお休所、それはぐずぐずしてゐて、そして高すぎた、木曽の店は総じて商売振がまだるこい。
寝覚の床は清閑境であるが、鉄道線路がその上を走つてをり、前方に送電塔がそびえてゐるのはふさはしくない。
『旅日記』 昭和十四年
「私の旅日記」
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