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正岡子規
『かけはしの記』
明治24年(1891年)5月、正岡子規は木曽路の旅をする。
浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし。腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿と知らぬが仏の御力を杖にたのみていろいろと病の足もと覚束なく草鞋の緒も結びあへでいそぎ都を立ちいでぬ。
上野より汽車にて
横川
に行く。馬車笛吹嶺を渉る。鳥の声耳元に落ちて見あぐれば千仭の絶壁、百尺の老樹、聳え聳えて天も高からず。樵夫の歌、足もとに起つて見下せば蔦かづらを伝ひて渡るべき谷間に腥き風颯と吹きどよめきて万山自ら震動す。遙かにこしかたを見かへるに山又山峩々として路いづくにかある。寸馬豆人のみぞ、かれかと許り疑はれて、
つゝら折幾重の峯をわたりきて雲間にひくき山もとの里
軽井沢はさすがに夏猶寒く透間もる浅間おろしに一重の旅衣、見はてぬ夢を護るに難かり。例ならず疾く起きいでゝ窓を開けば幾重の山嶺屏風を遶めぐらして草のみ生ひ茂りたれば其の色染めたらんよりも麗はし。
山々は萌黄浅葱やほとゝぎす
浅間は雲に隠れて煙もいづこに立ち迷ふらんと思はる。汽車を駆りて
善光寺
に詣づ。いつかの大火に寺院はおろかあたりの家居まで扨も焼けたりや焼けたり、千歳の松も限りあればや昔の縁乍たちまち消えうせて木も枝もやけこがれさも物うげに立てるあはひに本堂のみ屹然として聊かも傷はざるは浪花堀江の御難をも逃れ給ひし御仏の力、末世の今に至るまで変らぬためしぞかしこしや。
あれ家や茨花さく臼の上
又
川中嶋
を過ぎて篠井まで立戻る。古戦場はいづくの程とも知らねど山と川とに囲まれて犀河の廻るあたりにやあらん。河の水いたく痩せてほとりの麦畠空しく赤らみたり。
松本にて昼餉したゝむ。早く木曾路に入らんことのみ急がれて原新田まで三里の道を馬車に縮めて
洗馬
までたどりつき饅頭にすき腹をこやして本山の玉木屋にやどる。こゝの主婦我を何とか見けん短冊をもち来りて御笠に書きつけたるやうなものを書きて給はれと請ふ。いかなる都人に教へられてかといとにくし。
日照山徳音寺に行きて木曾宣公の碑の石摺一枚を求む。この前の淵を山吹が淵
巴が淵
と名づくとかや。
福嶋
をこよひの旅枕と定む。木曾第一の繁昌なりとぞ。
巴 淵
翌日朝大雨。待てども晴間なし、傘を購ひ来りて書き流す句に、
折からの木曾の旅路を五月雨
旅亭を出づれば雨をやみになりぬ。此ひまにと急げば雨の脚に追ひつかれ木陰に憩へば又ふりやむ。兎に角と雨になぶられながら行き行きて
桟橋
に著きたり。見る目危き両岸の岩ほ数十丈の高さに劉
(き)
りなしたるさま一雙の屏風を押し立てたるが如し。神代のむかしより蒸し重なりたる苔のうつくしう青み渡りしあはひあはひに何げなく咲きいでたる杜鵑花の麗はしさ狩野派にやあらん土佐画にやあらん。更に一歩を進めて下を覗けば五月雨に水嵩ましたる川の勢ひ渦まく波に雲を流して突きてはわれ、当りては砕くる響大盤石も動く心地してうしろの茶屋に入り床几に腰うちかけて目を瞑ぐに大地の動き暫しはやまず。蕉翁の石碑を拝みてさゝやかなる橋の虹の如き上を渡るに我身も空中に浮ぶかと疑はれ足のうらひやひやと覚えて強くも得踏まず通り、こし方を見渡せばこゝぞ桟のあとゝ思しきも今は石を積みかためれば固より往き来の煩ひもなく只蔦かつらの力がましく這ひ纒はれるばかりぞ古の俤なるべき。
俳句
かけはしやあぶない処に山つゝじ
桟や水へとゞかず五月雨
歌
むかしたれ雲のゆきゝのあとつけてわたしそめけん木曾のかけはし
「木曽の棧」
上松を過ぐれば程もなく
寝覚の里
なり。寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。其傍に押し立てたる岩を屏風岩、畳みあげたるを畳岩といふ。
象岩は其の鼻長く獅子岩は其の口広し、此外こしかけ岩俎板岩釜岩硯岩烏帽子岩抔申なりといと殊勝げにぞしやべりける。誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし。
寝覚の床
猶折々は河の真中に岩の現はれて白波打ち寄するなど恐ろしげなるに船頭は横ふりむきて知らぬ顔すれば舟は心得顔にやすやすとそをよけてぞ流れける。やうやうに心落ち居て見渡せば一方は絶壁天を支へて古松いろいろに青み渡り木陰岩間には咲き残れるつつじの色どりたるけしきまたなく面白し。
下り舟岩に松ありつゝじあり
正岡子規
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