このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「芭蕉句碑」


入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ

中山道 は洗馬宿で善光寺街道と分かれる。

塩尻市宗賀洗馬の旧中山道沿いに高札場跡があった。


高札場跡


ここは洗馬の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)とよばれた。伝馬駄賃勘定や幕府のお触れなどが掲げられていた。

明治以後裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は「どんぐりハウス」として移築利用されている。

洗馬区

高札場跡に「芭蕉」の句碑があった。


   信濃の洗馬

入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ

   芭蕉
俳諧一葉集 より

昭和53年(1978)3月、建立。

存疑 の句である。

芭蕉同句俳諧句集 もとの水 より

   しなのの洗馬

つゆはれのわたくし雨や雲ちきれ

「わたくし雨」は、にわか雨のこと。

『風羅袖日記』 には「元禄三午・夏の部」に収録されている。

  『芭蕉翁句解参考』 に「わたくし雨とハ、雲ちぎれたる空よりぱらぱらとふり過るなるべし。」とある。

『奥の枝折』 には「露晴の」とあり、「秋の部」に収録されている。

『芭蕉句鑑』 には「貞享元甲子年」に収録されている。

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は洗馬の町のことを書いている。

○洗馬より本山へ三十町、洗馬の町家八十軒ばかり有。町の東入り口に水野隼人殿茶屋あり。西の出口に小澤川有。此北二里に今井という所あり。兼平が住し所といふ。是虚説なるか、木曾にも今井という所有。兼平住せしと云。洗馬の西に太田の清水とて水あり。 木曾義仲 の馬を洗ひし所也。故(かるがゆゑに)洗馬の名付と云。


 宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は越前の俳人蕉露を伴い松島遊覧の途次信州に入った。

 横雲と共に福島の関立でれば、夕べには似ず雪の白妙なるに、明残れる月の寒げに照わたり、こゝの尾上かしこの谷陰には、桜のいとおもたげに雪の下に咲出たるは、「空にしられぬ」といふ気色にもあらず。かく雪月花を一時に詠るは、いかなるすくせある日にや。 巴が淵 ・山吹の平、行々て洗馬といへる平原の地に出づ。馬頭初見米嚢花も暗に思ひあはせらる。桔梗が原の古戦場に首塚といふ所多し。蕉露が句あり。

   その時の俤見する茅花(つばな)かな


洗馬の宿を詠んだ 常世田長翠 の句がある。

   途中

雲雀啼洗馬の宿引我も曳

 享保2年(1802年)4月1日、太田南畝は「洗馬の名」について書いている。

洗馬の駅には、松本諸白うる家多し。追分荷廻し所と書し札ある家もみゆ。左の方に太田清水といふありて、木曾殿の馬を洗ひしより洗馬の名ありとぞ。


 嘉永6年(1853年)5月18日、吉田松陰は江戸に行く途中、福島から洗馬に泊まる。

洗馬に宿す。行程九里。是の日、雨甚だしく窘迫(きんぱく)極まれり。


 明治25年(1892年)5月、 正岡子規 は木曾紀行文 「かけはしの記」 を『日本』に連載する。

 松本にて昼餉したゝむ。早く木曾路に入らんことのみ急がれて原新田まで三里の道を馬車に縮めて洗馬までたどりつき饅頭にすき腹をこやして本山の玉木屋にやどる。こゝの主婦我を何とか見けん短冊をもち来りて御笠に書きつけたるやうなものを書きて給はれと請ふ。いかなる都人に教へられてかといとにくし。

 大正15年(1926年)9月25日、 荻原井泉水 は木曽福島から姨捨山に向かう途中で洗馬を通りがかる。

   つゆはれのわたくし雨や雲ちぎれ   芭蕉

この句が『もとの水』に「しなのの洗馬という前書がしてある。この洗馬にての作と思われるが、『更科紀行』の時とは季節が違うから別の折の作であろう。洗馬では、義仲が馬を洗ったというその井戸を、道端の家並の中に見たような古い記憶がある。

『随筆芭蕉』 (姨捨山に来て)

 昭和26年(1951年)8月10日、 水原秋桜子 は洗馬を通りががる。

   洗馬にて

夕立つ山迫りてこゝは木曾の洗馬

『残鐘』

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