このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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中山道
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福島関所跡
木曽町福島関町に福島関所跡がある。
福島関所跡
国史跡
福島関所跡
福島関所の創設された年代は明らかではないが、
中山道
の開かれた慶長7年(1602年)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして
碓氷
、
箱根
、
新居
とともに当時天下の四大関所と称していたものである。
当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治2年6月までその機能を果たしてきた。
この関所は、各藩境等に見られる番所の類と機能を異にし、特に「女改め」と「鉄砲改め」とに重点が置かれていた。
中山道が東海道と共に当時江戸と京都を結ぶ幹線の道路とされていたことや、「女改め」の手形の本紙はこの関所に留め下り(江戸へ向かうもの)のものについては、ここから碓氷関所へ「書替手形」を発行する、とされていたことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重大視されていたかがうかがわれる。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんどとどめていなかったが、昭和50年夏に行われた発掘調査の結果、寛文年間(1661〜1670)頃のものと推定される。
関所古絵地図にみられる
一、御関所敷地 弐拾五間三尺
一、敷地是より大道北の柵迄拾六間
一、御関所間口五間 奥行五間
一、下番所間口三間 奥行六間
一、東門外に駒寄 拾五間一尺五寸
一、捨門(西門)外に柵七間五尺その先端駒寄四間四尺
一、南側根の井山迄東門のつづき柵を三拾九間四尺
の規模にわたる、関所遺構の全容を確認することができた。
これを史跡公園として整備保存する計画がたてられ、史跡公園に隣接して、昭和52年4月27日、当時の御番所建物を再現、関所資料館が完成し、昭和54年3月13日、文部省より国史跡として指定された。
平成2年敷地内の民地の公有化にともない第2次発掘調査を実施し史跡保存、環境整備の一環として、平成4年度に東西両門と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたものである。
木曽福島町教育委員会
貞享2年(1685年)、貝原益軒は福島関所のことを書いている。
○町の入り口左の方に、公儀より御番所有。此所にて東へ行者の、鐡砲と女とをいましめてとむる事、遠州荒江のごとし。山村甚平と云人、尾州公の與力なるが、此所に居住せり。知行七千石。先祖は木曾義政の家人なり。
『岐蘇路記』
寛政4年(1792年)11月7日、栗庵似鳩は夕暮れ時に福島の関に入った。
かゝるくるしき中に急かしく馬乗来りて、はやくあゆめ、福島の関 の戸や閉し頃なりと。是に心取直して行に、御城の方に晩鐘の響出たる、又心せかるれ
心細し雪の関屋にくれの鐘
似鳩
御城遠望
雪積て愛度城の甍かな
ゝ
斯て関の戸閉す頃漸々走付て無難に通りぬ。
『信濃紀行』
享和2年(1802年)3月29日、太田南畝は福島の関所を越えている。
福嶋の御関所は尾張の山村氏の守る所也。まづ御用の文書いれたる長持の櫃を先にたてゝ、 そのよしを告ぐるに、しばらく関の戸ぐちにまたせて、さきざきの例など下づかさに尋ねとふさま也。やゝありて通ふ
(ママ)
るべきよしをいふ。下づかさのもの階に下りて会釈す。
『壬戌紀行』
嘉永6年(1853年)5月17日、吉田松陰は江戸に行く途中、福島に泊まる。18日、松陰は福島を出て関所を越える。
十七日 翳。三戸野を發し、野尻・須原・上松を經て福島に宿す。行程九里半餘。道常に木曾川と相隨ひ、連山複嶺、重々として相依り、山水愛すべし、而して別に一事の記すべきなし。
十八日 雨、終日やまず、福島を發す。關あり。関の法は符券を要せず、唯だ笠を脱ぎて過ぐるのみ。木曾の連山はここに至りて稍斷え、道路稍坦なり。宮越・藪原を經て鳥井嶺を踰ゆ、嶺以西の水は西流して木曾川となり、嶺以東は則ち筑摩川に入る。
『癸丑遊歴日録』
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