このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

八幡原史跡公園〜川中島古戦場〜

長野市小島田町の県道35号長野真田線沿いに八幡原史跡公園がある。


八幡原史跡公園は川中島古戦場。

信玄・謙信一騎討ちの像


 永禄4年(1561年)の4回目の戦いで、 謙信 はただ一騎 信玄 目がけて駆け寄り太刀を振り下ろしたのを信玄は軍配で受けた。

 明治42年(1909年)5月25日、河東碧梧桐は八幡原を訪れている。

 八幡原は謙信、信玄接戦の地であるという。俗に七太刀八太刀ともいうて、それに生える麦は穂が曲るなどとも附会する。謙信すでに信玄の牙営に突入してこれを傷け、、今や一撃相搏(そうはく)せんとする時、原大隅鎗鞘をとる暇もなく、咄嗟の間謙信の馬を刺し、謙信大地に落ち僅に身をもって免れ、信玄また旗下に助けられて海津城に入る、などと当時のことを想えば一望ただ穂麦の戦(そよ)ぐ夕日影にも、テイ徊去る能わざるものがある。ささやかな八幡社の森の後ろに、徳本が供養のために建てたものであろう、六字の碑のあるのを見て、そこの茶店に休んだ。


 昭和43年(1968年)、 水原秋桜子 は八幡原を訪れている。

  八幡原

旗指物ひしめきし野ぞ林檎咲く

『殉教』

八幡原史跡公園に八幡社がある。


 永禄4年(1561年)の川中島の戦いで社殿は破壊され、信玄が再建させた。

 貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、川中島に出て善光寺へ。

○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠丹波島。川中島に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。先珠數とりて。其名も高き佛日の善光(よきひかり)ある御寺の境内繁々たる。


八幡社に芭蕉の句碑があった。


十六夜もまた更科の郡かな

出典は 『更科紀行』

坂城で十六夜の月を詠んだ句とされる。

天保14年(1843年)、翁忌芭蕉百五十回造立。

昭和39年(1964年)春、再建。

 宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、川中島を訪ねている。

 河中島は甲越の雌雄を決せし所とかや。大河左右にながれ、高山四方をかこみて、実も地理そなはりて覚ゆ。


 明和8年(1771年)8月20日、諸九尼は 善光寺 へ行く途中で川中島に立ち寄っている。

 廿二日 善光寺へ行程に、大河をいくつもわたる。爰なん川中嶋といふ。むかしたけ田長尾など聞えし大将の、かせんありし所になん。人の軍書よめるを聞て、所々耳にとまりたる事を思ひつゞけて、かくおさまれる代のしづけく、今は法の道すじと成て、老たる尼ほう(ふ)しまでうちつれて行かふさま、誠に有難ぞおぼゆ。


私の旅日記2010年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください