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私の旅日記
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2010年
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八幡原史跡公園
〜川中島古戦場〜
長野市小島田町の県道35号長野真田線沿いに八幡原史跡公園がある。
八幡原史跡公園は川中島古戦場。
信玄・謙信一騎討ちの像
永禄4年(1561年)の4回目の戦いで、
謙信
はただ一騎
信玄
目がけて駆け寄り太刀を振り下ろしたのを信玄は軍配で受けた。
明治42年(1909年)5月25日、河東碧梧桐は八幡原を訪れている。
八幡原は謙信、信玄接戦の地であるという。俗に七太刀八太刀ともいうて、それに生える麦は穂が曲るなどとも附会する。謙信すでに信玄の牙営に突入してこれを傷け、、今や一撃相搏
(そうはく)
せんとする時、原大隅鎗鞘をとる暇もなく、咄嗟の間謙信の馬を刺し、謙信大地に落ち僅に身をもって免れ、信玄また旗下に助けられて海津城に入る、などと当時のことを想えば一望ただ穂麦の戦(そよ)ぐ夕日影にも、テイ徊去る能わざるものがある。ささやかな八幡社の森の後ろに、徳本が供養のために建てたものであろう、六字の碑のあるのを見て、そこの茶店に休んだ。
『続三千里』
昭和43年(1968年)、
水原秋桜子
は八幡原を訪れている。
八幡原
旗指物ひしめきし野ぞ林檎咲く
『殉教』
八幡原史跡公園に八幡社がある。
永禄4年(1561年)の川中島の戦いで社殿は破壊され、信玄が再建させた。
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、川中島に出て善光寺へ。
○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠丹波島。川中島に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。先珠數とりて。其名も高き佛日の善光
(よきひかり)
ある御寺の境内繁々たる。
『日本行脚文集』(巻之六)
八幡社に芭蕉の句碑があった。
十六夜もまた更科の郡かな
出典は
『更科紀行』
。
坂城で十六夜の月を詠んだ句とされる。
天保14年(1843年)、翁忌芭蕉百五十回造立。
昭和39年(1964年)春、再建。
宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、川中島を訪ねている。
河中島は甲越の雌雄を決せし所とかや。大河左右にながれ、高山四方をかこみて、実も地理そなはりて覚ゆ。
『松しま道の記』
明和8年(1771年)8月20日、諸九尼は
善光寺
へ行く途中で川中島に立ち寄っている。
廿二日 善光寺へ行程に、大河をいくつもわたる。爰なん川中嶋といふ。むかしたけ田長尾など聞えし大将の、かせんありし所になん。人の軍書よめるを聞て、所々耳にとまりたる事を思ひつゞけて、かくおさまれる代のしづけく、今は法の道すじと成て、老たる尼ほう
(ふ)
しまでうちつれて行かふさま、誠に有難ぞおぼゆ。
『秋風記』
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