このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

岐阜城〜天守閣〜
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岐阜公園 から金華山ロープウェーで岐阜城へ。


ロープウェーから三重塔の写真を撮る。


上格子門跡


 城下の大手門から急坂な大手道(七曲道)を上ってきたここに「上格子門(あげこうしもん)」が建っていた。東(右手)に大きな岩塊、西(左手)には切り立った岩壁がそびえたち、頂に七間櫓が築かれていた要害の場所である。

 関ヶ原合戦 の前哨戦となった慶長5年(1600年)8月23日の岐阜城攻略戦では、攻めのぼってきた東軍の福島正則らの軍兵と岐阜城主織田秀信軍の将兵が、この門をめぐって激しく戦った。

馬場跡に芭蕉の句碑があった。


   ひとつはといふ草を

夏きてもたゝひとつはの一葉哉

            芭蕉翁桃青

貞享5年(1688年)、『笈の小文』の旅の帰路岐阜付近の山中で詠まれた句。

昭和30年(1955年)11月25日、岐阜県俳句作家協会建立。

千成ひょうたん発祥の地


木下藤吉郎と千成瓢箪

 永禄10年(1567年)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、 豊臣秀吉 と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。

岐阜市

岐阜城天守閣


昭和31年(1956年)、復興。

鉄筋コンクリート造り3層4階構造。

 天正11年(1583年)5月、池田元(之)助が 有岡城 から移り、岐阜城主となる。

 慶長5年(1600年)、 関ヶ原の戦い の後、岐阜城は廃城となった。

 享和2年(1802年)3月26日、太田南畝は稲葉山のことを書いている。

朝日の影さしいづるに、左に山近くみゆるは稲葉山にや。信長公天守の跡ありといふ山は けはしくみゆ。金花山といふとぞ。岐阜惣社ありて、麓に長柄川ながるゝと云。


大野伴睦 の句碑があった。


天そゝる金華の城や風光る   萬木

岐阜城資料館


昭和50年(1975年)、昔の武器庫・食糧庫を隅櫓城郭造りに復元したもの。

長良川 を望む。


平成18年(2006年)4月6日、 日本100名城 39番に選定された。

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