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私の旅日記2007年

鴫立庵〜碑巡り〜
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JR東海道線大磯駅から海岸に向かうと、鴫立沢に鴫立庵がある。


 寛文4年(1664年)、小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695年)俳人の 大淀三千風 が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。

 現在では、京都の 落柿舎 、滋賀の 無名庵 とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。

 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に「著盡湘南清絶地」と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。

こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ  ( 西行法師

鴫立庵


 大正7年(1918年)11月から11月まで 荻原井泉水 は大磯に仮寓。それから13、4年後、鴫立庵を訪ねている。

其徑には左側から老松が枝を垂れかけてゐる。それが鴫立庵の松なのである。鴫立庵は正しく云ふと、大磯と小磯との境なる小流を越えて、小磯の方にある。

「大磯の春 ——鴫立庵を尋ねて——」

西行の歌碑があった。


こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮

佐佐木信綱

第一世庵主 大淀三千風
第二世庵主 大本朱人句碑



鴫きゝて名月そなるなほあハれ
   三千風居士遺章

ちり塚にもろしや花の菜大根
   朱人居士遺吟

朱人の句

人しれぬ秘藏娘や華葵


三世庵主

白井鳥酔追善句碑


白井鳥酔 は鴫立庵三世庵主。在庵4年。

戸田茂睡の歌碑があった。


あはれおもへむかしの秋のそれならてしきたつ沢にのこすわか名を

天和3年(1683年)3月25日、建立。

 戸田茂睡[1629〜1706]は歌学者・歌人。駿河の人。名は恭光(やすみつ)。通称、茂右衛門。号、梨本(なしのもと)・隠家。岡崎藩本多氏に仕えたが、のち江戸浅草に隠棲。

浅草の 待乳山聖天 にも歌碑がある。

円位堂


 大淀三千風の建てたもので、堂内には 西行法師坐像 が安置されているそうだ。

円位堂の左に 芭蕉の句碑 があった。


はこねこす人もあるらしけさの雪
春たちてまだ九日の野山哉
みのむしの音を聞に来よ草の庵
日のみちや葵かたむく皐月雨

大淀三千風墓碑


鴫立し沢辺の菴をふきかえて
   こゝろなき身のおもひ出にせん

鴫たつてなきものを何よぶことり

鴫立澤一世

鳥醉翁


大嶌や波によせたる雪の船

明和第六己丑歳次四月四日

東都松露庵  烏明 樹立

明和4年(1767年)4月、鳥酔は鴫立庵主となる。

明和6年(1769年)4月4日は、鳥醉の没年月日。

杉坂百明句碑


西東鳴へき夜也ほととぎす

百明房得らひたり昨烏歎書

明和7年(1770年)8月13日、建立。昨烏揮毫。

昨烏は加舎白雄の前号。

杉坂百明 は上総東金に生まれる。通称志蔵、土竜庵。白井鳥酔門。

鴫立庵四世。在庵16年。

裏面に 左明 居士遺章「隠れ家にをとや鯛きる花さかり」が刻まれているそうだ。

 明和8年(1771年)4月23日、諸九尼は鴫立庵を訪れている。

 廿三日 大磯にいたり、鴫たつ沢の庵 を音信けれど、あるじは留守なりければほゐ(い)なくて、

   鴫の声なくてうらやミ麦の秋

 かく書付て立出けるに、やがて帰たりとて、人して呼とめられて、また立帰りぬ。西行上人の像を拝、鳥酔老人の塚などとぶらひぬ。松の嵐、磯うつ波の音、何となく物悲しく、心なき身にも哀ぞ添ぬる。


加舎白雄の句碑 があった。


白雄居士

吹つくし後は草根に秋のかぜ

加舎白雄 は鴫立庵五世庵主。在庵8年。

 安永9年(1780年)4月17日、 蝶夢 は江戸からの帰途、鴫立庵を訪れている。

 固瀬(カタセ)川・唐が原を過て、 藤沢寺 に参る。馬入河をこして、大磯の 虎の石 を見る。鴫立沢の庵 によるに、いほぬしは、他国に行てあはず。


天明4年(1784年)7月22日、百明歿。

 天明8年(1788年)4月18日、蝶夢は再び鴫立庵を訪れた。

平塚・ 大磯 、和泉屋に泊。鴫立沢 の庵主問ふ。

   うき草の旅や流れのはなごゝろ

と一句を残し帰らんとするに、庵主、脇を付て留らるゝを、

   大磯の小磯の浦のうら風に
      引ともしらずかへる袖哉

と旅宿にやどる。


西奴墓碑


西奴居士墓

西奴は鴫立庵六世庵主。在庵2年。

伊勢山田の人。鳥酔の門人。乙草。秋暮亭。

寛政5年(1793年)8月12日、没。

雨すぎて夜さむのからす啼にけり

三浦柴居句碑


夜をひと夜おもへハなかし松の霜

三浦柴居 は鴫立庵七世庵主。在庵1年2ヵ月。

寛政6年(1794年)10月18日、没。

倉田葛三 は鴫立庵八世庵主。在庵24年。

 寛政7年(1795年)2月、西上人六百遠忌正当法要。 『衣更着集』 (葛三編)刊。

 文化3年(1806年)7月4日、菜窓菜英は鴫立庵を訪れたが、庵主葛三は留守。

庵主葛三は行脚の畄守とて暮玖と言

根方尺布の伯父なん人にまミへ(え)、す(し)はらくの

もの語して、宿の案内も老か身すから

なしくれ、心あり氣なる家に泊る。

   こゆるきや旅の柱の一葉舟


 文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は鴫立庵を訪れ5日滞在している。

   鴫立沢に杖を留る事五日

旅の日は鴨の脛にも似たりけり


 文化14年(1817年)秋、 中村碓嶺 は鴫立沢を訪れている。

文政元年(1818年)6月12日、葛三没。

遠藤雉啄 は葛三の墓碑を造立。

句碑はない。

雉啄の句碑がある。


心ほど世は経かたくも散櫻

雉啄 は鴫立庵九世庵主。在庵27年。

佐佐木信綱 の歌碑もあった。


こゝろ今もいこひいまさむ波のおと松風きよきこの海そひに

鴫立庵は茅葺屋根の葺き替え工事のため平成19年12月29日から休庵。

来春 再開するそうだ。

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