このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2008年

虎御石〜延台寺〜
indexにもどる

小島本陣旧蹟 から国道1号を歩く。

大磯といえば「虎御石」。私は、うかつにも知らなかった。

   大礒にて

(すし)に肌ふれぬもうれし虎が石


虎御石

 曽我十郎の剣難を救った身代り石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。

 江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにはあがらずという色好みの石なり・・・」とある。

大磯町

「虎御石」は 延台寺 (HP)にあった。


延台寺山門


日蓮宗 の寺である。

慶長4年(1599年)、身延山19世法主法雲院日道により開かれたそうだ。

宮経山延台寺


虎御石

 安政元年(1175年)、大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は40才を過ぎても子宝に恵まれず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名づけた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕もとにあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石として大切におまつりしていた。

 不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、いつしか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲になった。十郎が虎女の家で刺客におそわれた時、この石のおかげで命が助かったので、身替りの石ともいう。

 兄弟は富士の裾野で父の仇工藤祐経(すけつね)を討ち、本懐をとげて死んだ。虎女は兄弟の最期の地をたずね、「露とのみ消えにしあとを来てみれば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵を結んで兄弟の菩提をとむらったのが当山である。

曽我兄弟の兄の十郎は曾我祐成(すけなり)

建久4年(1193年)5月28日の事である。

 5月28日 癸巳 小雨降る、日中以後霽

 子の刻に、故伊東の次郎祐親法師が孫子曽我の十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門の尉祐経を殺戮す。

『吾妻鏡』 (治承4年)

法虎庵曽我堂


 元禄3年(1690年)10月、鬼貫は大磯で虎御前を句に詠んでいる。

それより大磯にこえて、

   とら御前今はつめたし石の肌


   大礒

祐成が惜みし春の夜明かな


 享和元年(1801年)2月28日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で虎御石を見よう延台寺に入る。

此あたりに虎御前のやしき跡ありといふ。大磯の宿を過て、名におふ虎御石みんと延台寺 に入れば、鬼子母神堂・虎池・弁才天の宮あり。石に太刀疵矢疵といへるものありて、曾我十郎が身がはりにたてるなど、寺僧のかたるも覚束なし。寺は延山十九世法雲院日道上人慶長年中に草創せるとぞ。十郎慷慨愛於菟といへる羅山子の詩の句も思出られておかし。


虎御前祈願の龍神


「虎御石」は 『東海道中膝栗毛』 にも出ている。

それより 大磯にいたり、虎が石を見て北八よむ

   此さとの虎は籔にも剛のものおもしの石となりし貞節

弥次郎兵へとりあへず

   去ながら石になるとは無分別ひとつ蓮のうへにや乘られぬ

斯打興じて大磯のまちを打過、 鴫立沢 にいたり、

私の旅日記2008年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください