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下 町
待乳山聖天
〜久保田万太郎の句〜
隅田公園
の西に待乳山聖天がある。
待乳山聖天
(まつちやましょうでん)
本堂は昭和36年に再建されたもの。
待乳山聖天は、金龍山
浅草寺
の支院で、正しくは待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601年)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が 大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての
竹屋の渡し
にほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。
今戸橋と待乳山聖天
文明18年(1486年)、道興准后は浅草寺参詣の途中で待乳山を訪れている。
当所の寺号、浅草寺といへる。十一面観音にて侍り、たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、
いかてわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山にけふはきぬらむ
しくれても逐にもみちぬ待乳山落葉をときと木枯そ吹く
『廻国雑記』
真土山にあり。別当は、天台宗金龍山本龍院と号く。伝へ云ふ、大同年中の勧請にして、江戸聖天宮第一の霊跡なりといへり。(『和漢三才図会』『江戸鹿子』等の書に、
斎藤別当実盛
深く尊信の霊像なりといへり。)
弁財天祠(山の麓、池の中島にあり。平政子崇尊の霊像なりといへり。)この所今は形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍うて容々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒
(すゐらん)
まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり。
『江戸名所図会』
(聖天宮)
榎本其角は待乳山で句を詠んでいる。
亦打山
夜こそきけ穢多が太鼓鵑
待乳山
こよひ満り棹のふとんにのる烏
『五元集』
服部嵐雪も待乳山で句を詠んでいる。
待乳山の社頭に雨をしのぎて
空は墨に畫龍のそきぬ郭公
『玄峰集』
佐久間柳居
は待乳山に句を奉納している。
題 待乳山晴嵐
鷺の飛間やしらはけて青あらし
『柳居発句集』
鈴木荘丹
も待乳山を句に詠んでいる。
春雨や橋場菴崎眞乳山
『能静草』
戸田茂睡の歌碑があった。
哀れとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉
歌碑は昭和30年に再建されたもの。
文化5年(1808年)3月20日、
小林一茶
は待乳山に登り茂睡の碑を見ている。
心を転じて、浅艸真土山に登る。爰に隠れ家茂睡が[碑]有。かれあく迄閑かに住なしたらんは、歌のさまにしられて昔したはしく
庵崎や古きゆふべを春の雨
『花見の記』
戸田茂睡(1629−1706)は歌人・歌学者。駿河の人。名は恭光
(やすみつ)
。通称、茂右衛門。号、梨本
(なしのもと)
。古今伝授や制禁の詞を認めず、二条家歌学を攻撃、近世革新派の先駆となる。著「梨本集」「僻言調
(ひがごとしらべ)
」「紫の一本」など。
大磯の
鴫立庵
にも歌碑がある。
明治27年(1894年)、
正岡子規
も待乳山聖天を句に詠んでいる。
待乳山
町中に聖天高し冬木立
『寒山落木』(巻三)
久保田万太郎の句が書いてあった。
天狗坂
昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を降りたところに竹屋の渡しがあった
天狗坂夕木枯のおもいでに
久保田万太郎
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