このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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待乳山聖天〜久保田万太郎の句〜

隅田公園 の西に待乳山聖天がある。


待乳山聖天(まつちやましょうでん)


本堂は昭和36年に再建されたもの。

 待乳山聖天は、金龍山 浅草寺 の支院で、正しくは待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601年)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が 大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。

 ここは隅田川に臨み、かつての 竹屋の渡し にほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。

今戸橋と待乳山聖天


 文明18年(1486年)、道興准后は浅草寺参詣の途中で待乳山を訪れている。

当所の寺号、浅草寺といへる。十一面観音にて侍り、たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、

   いかてわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山にけふはきぬらむ

   しくれても逐にもみちぬ待乳山落葉をときと木枯そ吹く


真土山にあり。別当は、天台宗金龍山本龍院と号く。伝へ云ふ、大同年中の勧請にして、江戸聖天宮第一の霊跡なりといへり。(『和漢三才図会』『江戸鹿子』等の書に、 斎藤別当実盛 深く尊信の霊像なりといへり。)

弁財天祠(山の麓、池の中島にあり。平政子崇尊の霊像なりといへり。)この所今は形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍うて容々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒(すゐらん)まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり。

『江戸名所図会』 (聖天宮)

榎本其角は待乳山で句を詠んでいる。

   亦打山

夜こそきけ穢多が太鼓鵑

   待乳山

こよひ満り棹のふとんにのる烏


服部嵐雪も待乳山で句を詠んでいる。

   待乳山の社頭に雨をしのぎて

空は墨に畫龍のそきぬ郭公


佐久間柳居 は待乳山に句を奉納している。

   題 待乳山晴嵐

鷺の飛間やしらはけて青あらし


鈴木荘丹 も待乳山を句に詠んでいる。

春雨や橋場菴崎眞乳山


戸田茂睡の歌碑があった。


哀れとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉

歌碑は昭和30年に再建されたもの。

文化5年(1808年)3月20日、 小林一茶 は待乳山に登り茂睡の碑を見ている。

 心を転じて、浅艸真土山に登る。爰に隠れ家茂睡が[碑]有。かれあく迄閑かに住なしたらんは、歌のさまにしられて昔したはしく

   庵崎や古きゆふべを春の雨

『花見の記』

 戸田茂睡(1629−1706)は歌人・歌学者。駿河の人。名は恭光(やすみつ)。通称、茂右衛門。号、梨本(なしのもと)。古今伝授や制禁の詞を認めず、二条家歌学を攻撃、近世革新派の先駆となる。著「梨本集」「僻言調(ひがごとしらべ)」「紫の一本」など。

大磯の 鴫立庵 にも歌碑がある。

明治27年(1894年)、 正岡子規 も待乳山聖天を句に詠んでいる。

   待乳山

町中に聖天高し冬木立

『寒山落木』(巻三)

久保田万太郎の句が書いてあった。


   天狗坂

昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を降りたところに竹屋の渡しがあった

   天狗坂夕木枯のおもいでに


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