このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
〜浅草寺〜
浅草3丁目
から再び浅草寺へ。
浅草寺本堂(観音堂)
裏から写真を撮ってみた。
浅草寺にて
、 雨の日や桜しづまるうしろ堂
加舎白雄
「鎌都」
十月やうらからおがむ浅草寺
『七番日記』(文化12年10月)
人通りも少なくなった。
雪の曙観音堂をおほらかにひと廻りしてみたりけるかも
白秋
浅草寺は草創以来焼失と再建を繰り返した。慶安2年(1649)3代将軍家光によりに再建され、明治40年「国宝」に指定された。
関東大震災
も無事に免れたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で「国宝浅草寺本堂」は焼け落ちてしまった。戦後の昭和26年復興に着手、昭和33年に再建。
浅草寺五重塔
戦災により焼失。
昭和48年11月1日に再建された。鉄筋コンクリート造りである。
五重の塔の雪うつくしく段々につもりけるかなと眺めてぞゐし
白秋
元禄9年(1696年)、
天野桃隣
は『奥の細道』の跡をたどる旅を終え、浅草寺に参詣して句を詠んでいる。
浅草に入て、はや江戸の気色、こゝろには錦を着て編綴
(へんてつ)
の袖を翻し、観音に詣
ス
。
○手を上
ゲ
て群集
(ぐんじゆ)
分
ケ
たり草の花
[無都遅登理 五]
明和元年(1764年)12月16日、内山逸峰は浅草寺で歌を詠んでいる。
明る十六日、浅草の観音にて、
たがつけし誓ひ千尋の海よりも深きめぐみの名をばあさくさ
『東路露分衣』
明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は浅草寺に参詣している。
浅草の観音にまうでしに、行かふ人のを
(お)
し合ひたるさま、聞しよりまさりてにぎわ
(は)
し。
『秋風記』
安永9年(1780年)4月12日、蝶夢は浅草寺に参詣している。
浅草寺は、参詣の貴賤とろとろと水の流るゝごとし。此国に昔よりおはします観世音にて、霊験の事は、かけても申さじ、この年月の火にも焼で、御堂物ふりにたり。「火不能焼」のちかひなるか。
『東遊紀行』
文化6年(1809年)3月、優婆塞菜窓菜英
三匠句碑
建立。
ながむとて花にもいたし頸の骨
宗因
花の雲鐘は上野か浅草か
芭蕉
ゆく水やなににとどまる乃里
(のり)
の味
其角
文化7年(1810年)6月13日の朝、
小林一茶
は
蕉雨
と山谷堤から猪牙
(ちょき)
舟に乗り、浅草寺の鐘の音を聞く。
正岡子規の句碑
があった。
観音で雨に逢ひけり花盛
『寒山落木 巻四』(明治二十八年 春)に収録の句。
東京で子規の句碑を見たのは初めてだ。
雷門通り
へ。
下 町
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください