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芭蕉の句碑
闇の夜や巣をまとはして啼千鳥
山梨市駅
から笛吹川沿いに亀甲橋まで歩く。
亀甲橋
右手に富士山がかすかに見える。
山梨市八景 差出の磯とちどり
平安時代の勅撰和歌集『古今集』の賀の部に「
塩の山差出
(さしで)
の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く
」(詠み人知らず、塩の山に近い差出の磯に棲息するちどりが、大君の御代が八千年も長く長く続くように鳴いている)の一首があるが、天下の名勝・差出の磯は奈良・平安時代の昔から文人墨客が訪れ、その感懐を詩歌や絵画に残している。
いま亀甲橋から根津橋までの1.3キロがちどりの保護区になっているが、昭和51年「やまなし野鳥の会」の会員によって、コチドリ、イカルチドリ、シロチドリ、イソシギなどの棲息が確認され、これらを総称してちどりとしている。そして昭和55年「市の鳥」に指定された。
差出の磯に俳聖松尾芭蕉の「闇の夜や巣をまどはして鳴く千鳥」、千鳥湖畔に「川千鳥月より鳴いて落ちにけり」(加賀美子麓作)の句碑があり、ちどりの名所にふさわしい。
「差出の磯」が天下の名勝とは知らなかった。
「ちどり」もよく分からないのである。
亀甲橋から見る笛吹川
文明19年(1487年)、道興准后は塩の山、差出の磯を訪れている。
又、此の国の塩の山、さしでの磯とて、竝びたる名所侍りければ、
春の色も今一しほの山みれは日かけさしての磯そかすめる
此の二首を遣し侍りき。其の後、さしでの磯にて鶯を聞きてよめる
はる日影さして急くかしほの山たるひとけてや鶯のなく
『廻国雑記』
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は差出の磯などを見て、
恵林寺
を訪れた。
○かくて甲府を立つ。さし出の磯、鹽の山、鵜飼寺を見て、かの信玄公菩提所、乾徳山惠林寺に案内して、荊山老和尚に謁し、旅行のはふれをはらす。
『日本行脚文集』(巻之六)
安永5年(1775年)、
加舎白雄
は差出の磯を訪れている。
さし出の磯は山なだれて巉巌のさし出たるに、笛川の曲してむせびさかろふにぞ、磯は苔のなめらかに、蜷といふむしの糸もてむすびたるがごとくすさまじといひし春のあしたたへたへなりけり。
かげろふにさし出の荒磯ふみしりぬ
「甲峡記行」
天明8年(1788年)3月19日、差出の磯に翁塚建立のため俳諧興行。
十九日、落葉庵をいとまこふに、かのさし出の磯に翁の石碑を建んとて供養の俳諧に、各無是非ことに滞留して、一座の会を催す。
石文はこゝをせにせよ木瓜躑躅
と和尚の一句につゞけて、歌仙行。
『富士美行脚』
芭蕉の句碑
闇の夜や巣をまとはして啼千鳥
出典は
『猿蓑』
。
元禄4年(1691年)春の句。季語は「鳥の巣」。
寛政2年(1790年)10月、月朶園里塘・水石樓魚君建立。東江閑人筆。
『諸国翁墳記』
に「
鵆 塚 甲斐差出礒 里塘・魚君建
」とある。
文化3年(1806年)6月25日、菜窓菜英は差出の磯を訪れて、芭蕉の句碑を見ている。
俳談しはらくしてより差出か磯をつたひ、
塩の山
恵林寺
なとは遙に見やり、古哥に
塩の山さし出の磯に鳴ちとり君のみよをハ
八千代とそなく ○芭蕉塚 闇の夜や巣をまとハして
鳴千鳥 書は東江閑人
涼しさや浪も今更千代見草
草丸を訪ふに畄主なれハ、石和に出て泊る。
『山かつら』
昭和8年(1933年)10月21日、
与謝野寛・晶子
夫妻は
昇仙峡
に来遊の折、山梨市の万力林や差出の磯を散策、多くの作品を残している。
いにしへのさしでの磯を破らじと笛吹川の身を曲ぐるかな
鹽の山さし出の磯に立つ波もほどなき川の低き橋行く
「いぬあじさゐ」
圓通寺
へ。
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