このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
旅のあれこれ
柴屋軒宗長
『宗祇終焉記』
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『東路のつと』
宗祇
に師事し、連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕える。初名宗歓。宗長は早雲にも親しく会った人間である。
文安5年(1448年)、駿河国島田に鍛冶職人五条義助の次男として生まれる。
文正元年(1466年)、
宗祇
が関東に下向する途中、駿府に義忠を訪ねた。宗長は義忠の仰せで宗祇を
清見が関
に案内したそうだ。
文明12年(1480年)、宗祇の「筑紫道記」の旅に随行。
文亀元年(1501年)、宗長は越後の国府に師の宗祗を訪ねる。
文亀2年(1502年)7月30日、宗祇は
箱根湯本
で客死。宗長は宗碩と共に随従して
「宗祇終焉記」
を残している。
永正6年(1509年)7月、宗長は駿河を出て奥州白河を目指すが、戦乱のため断念し、関東各地を歴遊。12月鎌倉に着く。
『東路のつと』
大永2年(1522年)5月、宗長は
小夜の中山
を訪れた。
JR東海道本線島田駅北口に
「宗長庵趾」
がある。
丸子宿
(現在の静岡市駿河区丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み晩年を過ごした。
享禄5年(1532年)3月6日、駿河の府中で没。享年85歳。
「宗長庵趾」に宗長の句碑がある。
〜遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句に
こゑ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす〜
宗長の句
伊勢の国に修行しける頃、関の地蔵とかやにとまりたるに、宿に橘のさかりなりければ
宗長法師
橘のかにせゝられて寐ぬよかな
『其袋』
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