このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


めにかゝる雲やしはしの渡鳥

JR総武線亀戸から葛西橋行きのバスに乗る。

亀戸では沢山いた乗客も終点葛西橋では2人だけ。


葛西橋から荒川を撮る。


立春の米こぼれをり葛西橋   波郷

葛西橋から富賀岡(とみがおか)八幡宮まで歩く。


富賀岡八幡宮


御祭神は応神天皇。

富賀岡八幡宮

 元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624〜1643)の初めに今の深川に移し、そのため、寛文5年(1665年)に旧地を元八幡と称したといわれています。

 この付近は松樹が生い茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また、『江戸名所図会』や安藤広重の『名勝江戸百景』などにも当時の様子が描かれています。

拝殿の手前に芭蕉の句碑がある。


めにかゝる雲やしはしの渡鳥

句碑の前に御神籤(おみくじ)が結い付けられていて、正面から写真は撮れない。

『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄七戌ノとし」とする。

文化2年(1805年)初秋に建てられたもの。

句碑の裏に「文化二乙丑年初秋建之」と刻まれている。

本所砂村 元八幡 境内

渡鳥塚

めにかゝる雲やしはしの渡鳥

小柴憚(暉)雄書

碑陰

 文化二乙丑年初秋建之


石田波郷 は『江東歳時記』に元八幡(富賀岡八幡宮)のことを書いている。

 私はひそかに南砂町の工場街の真中の元八幡を訪ねた。境内の保育園の遊戯場の片すみに、芭蕉の句碑がある。

波郷が訪れた時と句碑の位置が変わっているようである。

煤煙の濃く淡く渡る鳥もなし

 元禄7年ごろの作といわれているが、7年は芭蕉の没年だから、江戸にいなかった。旅中の作か。 「渡鳥集」 所出。 「芭蕉句選拾遺」 に「めにかかる」と誤ったので「日にかかる」が正しい。日と目と誤記したのだろう。

『江東歳時記』 (南砂町五丁目元八幡で)

元禄15年(1702年)11月、『渡鳥集』 丈草跋。

宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・ 去来 編)刊。

 贈芭蕉翁御句文

十里亭の何がし、撰集の望み有。其名を『渡鳥集』とかいふなるよし。先師に此句有て、西花坊が笈の中に久しくかくし置ける。此度此名の相あへる事の尊とければ、贈りて此集の歓に備へける。

日にかゝる雲やしばしのわたりどり

『渡鳥集』

十里亭は長崎の俳人簑田卯七。去来の甥。

卯七の句

鶴も来て耕す人に交りけり

『享和句帖』(享和3年10月)

西花坊は 各務支考 の別号。

『蕉翁句集』 (土芳編)も「目にかゝる」とする。

宝暦6年(1756年)、井筒屋寛治 『芭蕉句選拾遺』 刊。

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