このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
〜
東海道
東海道吉田宿
豊橋市札木町に「丸よ本店」がある。
「丸よ本店」の前に「吉田宿本陣跡」があった。
東海道
吉田宿は日本橋から数えて34番目の宿場。
吉田宿本陣跡
ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の2軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には本陣2軒・脇本陣1軒、旅籠65軒がありましたが、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。
吉田の宿屋現金屋長兵衛は俳人
五束斎木朶
。吉田札木町に俳人植田古帆 がいた。
上伝馬町で曲がり国道23号を渡ると、「西惣門」があった。
「西惣門」
吉田宿西惣門は江戸時代、東海道筋の坂下町と上伝馬町の間にありました。
惣門の左側に番所があり、12畳の上番所、8畳の下番所、4坪の勝手があり、さらに駒寄せの空き地17坪がありました。
西惣門は、湖西市鷲津の本興寺の惣門を参考にして作成しました。
本興寺の惣門は、吉田城大手門を1674年に移築されたもので、湖西市指定文化財になっています。
湊神明社
へ。
貞亨4年(1687年)5月2日、大淀三千風は吉田に着く。
○五月二日三州吉田觀音院に着。五年目にめくりあひし。各興行過て。さて八橋のむかしを。
杜若鷺立澤と成にけり
『日本行脚文集』(巻之七)
歌川広重『東海道五十三次・吉田』
貞享4年(1678年)11月10日、芭蕉は
越人
を伴い保美(渥美町)に
杜国
を訪れようと吉田に泊まる。
三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡
(後)
ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
『笈の小文』
元禄11年(1698年)6月5日、
岩田涼莵
は吉田で句を詠んでいる。
吉田
爪
(瓜)
の香やはしの前までほかけ船
『皮籠摺』
享和元年(1801年)3月4日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で吉田に入る。
吉田の城の郭にいり、城門に入れば田下町是也。東鍛冶町也。右に城門あり。又大手の鴟吻
(しび)
みゆ。田本町を過て城門の外にいづれば、坂下町、田町などあり。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月11日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中吉田の酒屋で休む。
吉田の驛のこなたに泉公平いでむかへて、驛路の酒家にいこふ
美濃屋九兵衛
此所に夷曲をこのむもの多く來りつどへり。鰆といへる魚のあざらけきを苞にし來れるものめづらしかりき。
『小春紀行』
東海道は豊橋で豊川を渡り
御油宿
へ。
吉田橋の長さは百二十間となん。豊川の流にかゝれり。右に豊川いなり道あり。城主は今の執政松平伊豆守殿なり。
文化8年(1811年)、吉田藩主松平信明の老中在職中にゴローニン事件が起きている。
嘉永4年(1851年)3月28日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、吉田に泊まる。
吉田橋を過ぎて佐顧すれば、粉壁土壘屹然として流に臨む。是れ松平伊豆守の城なり。橋を過り、市に入りて宿す。夜間大雨、曉に至りて乃ち晴る。
『東遊日記』
聖眼寺
へ。
街道
〜
東海道
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください