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芭蕉の句碑
松葉を焚て手拭あふる寒さ哉
豊橋市下地町に聖眼寺という寺がある。
聖眼寺山門
山門の左手に「松葉塚標石」があった。
寺内に芭蕉塚有り
宝暦4年(1754年)2月12日、東都花傘宜来建立。
豊橋市指定史跡
松 葉 塚
3基
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769年)の再建松葉塚、宝暦4年(1754年)建立の古碑松葉塚標石
(しるべいし)
があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。
「松葉を焚て手拭あふる寒さ哉」
古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687年)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美
(ほび)
の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。
尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。
再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼
(たい)
て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。
また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。
豊橋市教育委員会
聖霊山聖眼寺
真宗
高田派の寺である。
永禄7年(1564年)、
徳川家康
は聖眼寺を本陣として吉田城を攻めたそうだ。
本堂の左手に「松葉塚」があった。
松葉焚て手拭あふる寒かな
イニゴ
蓼云、田家にて松葉をゴといふ、此事にや。諸書に「ごを焚て」とあるハ誤なり。
『芭蕉句解』
古碑松葉塚
松葉を焚て手ぬくひあふる寒さ哉
出典は『三河国二葉松』。「吉田の内、下地にて」と前書きがある。
「松葉」は東海地方の方言で「ご」と読む。
一 挙母、岡崎辺、松葉ヲごト云。スベテ三州ノ国語ト見へたり。
『祖餞』
『諸国翁墳記』
に「
松葉塚 三州吉田
ニ
在 連中建
」とある。
再建松葉塚
芭 蕉 翁
ごを燒て手拭あふる寒さ哉
出典は
『笈日記』
。「旅宿」と前書きがある。
『如行子』
に「氷哉」とある。
明和6年(1769年)4月、植田古帆、大木巴牛建立。
古帆は吉田札木町の富商植田七三郎。一蓬舎。高須麦雪の二男である。
巴牛は吉田曲尺手町の豪商大木十右衛門。名古屋の六々庵巴静の門人で横井也有と同門である。
「芭蕉翁」は白隱禅師、句は
横井也有
書。
左側面から裏面にかけて「由緒」が書かれている。
往昔芭蕉翁此地に杖を停て遺せる一句あり。爰に住けるたれかれ、ふかく蕉門の風雅を貴ぶ余り、はるけき近江の
義仲寺
に詣て古翁の墳の土を取来り、此所に塚を築石を建て、白隠老師に三大字を請得て石面に写し、猶いつまでも旧蹤の紛なからん事を思へり。其事成りて此趣を石背に記さむ事を予に求む。吁夫遠き世にかく慕はるゝは翁の徳にして、斯く慕ふは其人々の誠なるをや。辞し得ずして拙き筆を採るも不朽の盛事に感あればなり。
明和六歳次己丑夏四月 尾陽隠士 衡也有書
寛政5年(1793年)、芭蕉百年忌に「
ごを焚て手拭あふる寒さ哉
」「
さむけれとふたり旅寝そ頼もしき
」の両句を発句とする歌仙2巻を聖眼寺境内の松葉塚に供えた。
『松葉塚』
(木朶編)刊。
山口誓子
は、この2つの句碑を見ている。
南面するその寺に着くと、「親鸞聖人御旧跡」の碑が立っていて、正面が本堂。新しい本堂だ。その手前左手の盛土に、二つの句碑が立っている。右のは角柱、左のは自然石。
角柱には
ごを焼て手拭あぶる寒さ哉
自然石には
松葉を焚て手ぬぐひあぶる寒さ哉
と刻まれている。同一の句だ。
「松葉」は「ご」と読み、「焼て」は「たいて」と読む。
寒い外気の中で濡れた手拭をあぶる。あたりに散り敷く松葉を掻き集め、それを燃やした火であぶる。火と云ったとてかすかな火だ。火を燃やしても外気の寒さには変りはない。
(中略)
自然石の方が古く、「手ぬぐひ」の「ひ」など読み難い。角柱の方は新しいと云うが、それでも明和六年の建立。上に「芭蕉翁」、下に也有が句を二行に書いた。「焼」の字に斜めに傷が走っている。
『句碑をたずねて』
(東海道)
豊橋市湊町の
湊神明社
に「
寒けれど二人旅寝ぞたのもしき
」の句碑がある。
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