このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2008年

由比本陣公園〜脇本陣饂飩屋〜
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富士 から国道1号で由比へ。

由比川橋の下の駐車場に車を停め、由比本陣公園へ。


由比本陣公園


由比は品川から数えて 東海道 16番目の宿場。

此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへ ちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ。お休なさいやアせ。弥二「ヱゝやかましい女どもだ

   呼たつる女の聲はかみそりやさてこそ爰は髪由井の宿


本陣公園の物見塔


由比本陣の沿革

 ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ1軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口33間(60メートル)、奥行き40間(73メートル)、面積は1,300坪(4,300平方メートル)あります。

 この地に由比宿が定められたのは慶長6年(1601年)徳川家康によって伝馬36匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。

 また、ここに本陣が置かれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄3年(1560年)主君今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死にし、その子権蔵光広が帰農して、この地に永住したことにはじまります。以来、由比本陣家は連綿として子孫あいつぎ当代の由比宏忠氏にいたっています。

 由比町は平成元年、当主の理解をえて、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備し、敷地内に町民文化の振興と町の活性化の一助にと「東海道広重美術館」を開館しました。

 今や生涯学習の時代を迎え、町民に限らず広く来園者のみなさもの憩いの場・学習の場・交流ふれあいの場として活用されるよう希求いたします。これは由比本陣のルネッサンスといえます。

由比町教育委員会

脇本陣饂飩屋


 脇本陣とは、副本陣という意味です。

 由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒ありました。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この饂飩屋です。

 『東海道宿村大概帳』(天保12年、1841年、幕府編集)に、「脇本陣壱軒、凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付」とあるのがここだと思われます。

由比町教育委員会

由比といえば、由比正雪。

正雪紺屋

 表に蔀戸(しとみど)を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶(あいがめ)等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。

 慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。

由比町教育委員会

横山光輝の『伊賀の影丸』に由比正雪の巻があった。

 正徳4年(1714年)、稲津祇空 は難波に帰る途次、由井で句を詠んでいる。

   由井

袖袂米かつ蟹のしくれかな


 元文2年(1737年)6月、白井鳥酔は三保の松原の帰りに由比宿に泊まっている。

   からうじて由井の駅にとゞまる。
   昼のつかれに枕をとりて。

おもしろや蚊屋へ寄せ来る青海波
   西奴


 文化2年(1805年)11月14日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で脇本陣に泊まる。

薩タ(※「土」+「垂」)峠を上れば月出たり。海ちかく風さへあらきに、輿のうちにうづくまりて、やうやう由比の宿につきて、脇本陣伴右衛門のもとにやとれり。


 嘉永6年(1853年)9月21日、吉田松陰は長崎に赴く途中で三島から由比に泊まる。

二十一日  雨。已にして晴る。三島を發して、由井に宿す。


2008年11月1日、由比町は静岡市清水区に編入される。

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