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私の旅日記
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2008年
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鶴岡八幡宮
〜旗上弁天社〜
鎌倉の若宮大路を行くと、
鶴岡八幡宮
(HP)がある。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮の源氏池に旗上弁天社がある。
旗上弁天社御由緒記
治承4年(1180年)8月、
源頼朝
公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、
石橋山
の戦いに破れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠地とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。
その後昭和31年篤信家の立願によって再興され、さらには昭和55年9月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
因みに弁財天信仰は鎌倉時代既に盛んで、妙音芸能の女神、福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
4月24日 甲子
鶴岳若宮の邊の水田(弦巻田と號す)三町余り、耕作の儀を停められ、池に改めらる。専光・景義等之を奉行す。
『吾妻鏡』(養和2年)
文明18年(1486年)、道興准后は鶴岡八幡官に参詣している。
鶴が岡の八幡官に参詣し侍れば、伝へ聞き侍りしに勝れたる宮だちなり。まことに信心肝にめいじて尊くおぼえ侍る。抑、当社別当祖師隆弁僧正、経歴年久し。その階弟道瑜准后、号をば大如意寺といひ、両代彼の職に補し侍りき。由緒無双なることを思ひ出でて、神前に奉納の歌、
神もわか昔の風を忘れすは鶴かをかへのまつとしらなむ
『廻国雑記』
鶴岡八幡宮は人がいっぱい。
元禄5年(1692年)5月25日、貝原益軒は鶴岡八幡宮に参詣している。
鶴が岡の八幡宮にまいりぬ。神廟はいとたかき所にありて、石階をおほくのぼりゆく。神殿は三葉四葉にみがきたて、所がらいとめでたし。昔しばしば見し事は久しければ、わすれぬ。
『壬申紀行』
寛保3年(1743年)10月14日、
佐久間柳居
は
光明寺
で一夜を籠もり、翌15日鶴岡八幡宮を参詣している。
一二の鳥居を過て鶴か岡へさし向ふかしこのかくら殿明はなち暁天の笛鼓山彦に響かして神の留守事おこたらさる気しきいよいよ信深し
八乙女の七ツ起して鬢の霜 柳居
『あみ陀笠』
明和8年(1771年)4月26日、諸九尼は鶴岡八幡宮に参詣している。
鶴が岡の八幡宮にまうで、五山の寺々を拝
ミ
めぐる。雪の下の家にやどりけるに、常の旅寝にも似ず、月影が谷のむかしをおもひ出て、極楽寺の鐘の声、ことさらに心とゞまりぬ。
うの花にさえ行かねや雪の下
『秋風記』
天明8年(1788年)4月17日、蝶夢は鶴岡八幡宮を訪れている。
鶴ヶ岡の八幡宮は、名にしおふ霊場也。一ノ鳥井より三の花表まで拾八丁、南海の側へ続く。公卿の銀杏、左の柳、社の左右に有。
兵の影見るごとし夏木立
『富士美行脚』
昭和5年(1930年)12月7日、
与謝野寛・晶子夫妻
は円覚寺、建長寺、八幡宮を訪れている。
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