このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道東海道


草津宿本陣

草津市草津1丁目に「石造道標」があった。


「石造道標」


 草津市指定文化財(有形民俗文化財)

石造道標「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」1基

 この道標は 東海道中山道 が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816年)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2センチを測り、江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。

 道標竿部南面に「右 東海道いせみち」、西面に「左 中仙道美のぢ」と東海道、中山道の行先が刻まれています。

 また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。

 なお、草津四丁目の立木神社境内には延宝8年(1680年)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。

草津市教育委員会

史跡草津宿本陣


公開中であったが、私は先を急いだ。

草津歴史街道 東海道

 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。

 その里程は、江戸日本橋から相模 小田原宿 を経由、 箱根の関 、大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢 桑名宿 を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・ 石部 ・草津の各宿を経由、 勢田橋 を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。

 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。

 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺、立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった。

 また、矢倉には光伝寺・姥ケ餅屋・矢倉道標、野路には一里塚、教善寺、新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路 間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。

草津市教育委員会

東海道五十三次の52番目の宿場である。

 寛文2年(1661年)3月、西山宗因は草津の姥が餅を句に詠んでいる。

草津

   弥生也春の草津の姥が餅


 貞亨3年(1686年)8月、去来は妹千子を伴い伊勢に向かう途中に草津で休む。

草津に休らふに

  姥 餅 曽 無 皺

あるじの女房、我が方にたらさしむけて、「是なん姥があもなる。唯今臼の中よりちぎり取りてつめたからず。」などのゝしる。千子がたえずやをかしかりけん、あるじに代りて、

  紅粉を身にたやさねばいつとても皺の見えざる姥がもち哉  千子


 天明8年(1788年)2月26日、蝶夢は木姿を伴い江戸へ旅立ち、草津山城屋に泊る。

粟津・瀬田と湖水の眺望も、いつもながら飽ず。野路の玉川を経て、草津山城屋に泊る。


 天明8年(1788年)5月6日、蝶夢は江戸からの帰途でも草津の山城屋に泊まっている。

草津の山城屋は首途の日の宿りなれば、又、此家に三人泊る。


 享和元年(1801年)3月7日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で草津宿の「道標」を見ている。

草津川をわたりて右に岐路あり。右は木曾路、左は東海道いせ道なり。此所より右のかたに、矢橋道廿五町としるせり。又右のかたに家づくり大きなる餅屋あり。名づけて姥が餅屋といふ。


 享和2年(1802年)3月23日、太田南畝は大坂銅座詰の任を終え、草津追分を左の中山道に入る。

野路の砂川をわたりて、草津の追分也。右東海道いせ道、左中山道北国きそたが道といへる石表たてり。すなはち左の方中山道のかたに入るに、にはかにひなびたるさまして、東海道の賑ひには似もつかず。


 嘉永4年(1851年)3月22日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、草津で姥餅を食べた。

草津に抵り姥餅を食ふ。石部に宿す。凡そ十里。


 嘉永6年(1853年)9月29日、吉田松陰は長崎に赴く途中で坂下から草津に泊まる。

二十九日  坂下を發し、草津に宿す。


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