このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2008年
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小田原宿
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旧本陣
古清水旅館〜
北村透谷生誕地
から国道1号を下る。
小田原宿
江戸時代の小田原は、城下町であるとともに
東海道
屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、第1宿の品川から数えて9番目の宿場で通常は途中1泊してここに到着します。
東は徒歩
(かち)
渡り(10月から3月の間は橋が架けられました)の
酒匂川
、西は東海道一の難所
箱根
越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多くも常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。
笑ひ合ふ夕立晴れや二子山
立砂
白水の流れた址や小米花
菊明
『
俳諧
五十三駅』
(小田原)
小田原市本町に古清水旅館がある。
「小清水」は
『東海道中膝栗毛』
にも出ている。
此川
をこへゆけば小田原宿のやど引はやくも道に待ちうけて、
やど引
「あなたがたは、お泊りでござりますか
弥
「きさまはおだはらか。おいらア小清水か白子屋に、とまるつもりだ
宿引
「今晩は兩家とも、おとまりがござりますから、どふぞ私方へお泊下さりませ
旧脇本陣
古清水旅館
古清水旅館の東隣に古清水旅館本家である本陣清水屋があったそうだ。
天明8年(1788年)4月19日、蝶夢は小清水屋で伊豆へ行く道を尋ねている。
小田原、成美子の教にしたがひ小清水やにて伊豆の街を尋、海辺へ出て熱海へ志。石橋山の麓に石投村あり。
『富士美行脚』
享和元年(1801年)2月28日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で小田原宿に泊まる。
山王の橋のほとりにて日くれぬ。小田原の宿より出むかへて、小田原宿御用といへる挑灯高く両行にかゝげて先を払ふ。やゝ城下にいれば、右の方に番所あり。宮の前といへるあかし屋源四郎が家にやどりぬ。けふの道十二里にあまりて遠ければ、従者もつかれしにや、 鼾かきてふしぬ。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月16日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で小田原に泊まる。
十六日天顔晴和にして、けふ箱根山をこゆるによろしく、箱根權現の社にまうで、風祭のあたりにて日くれぬ。小田原の城にいれば月出たり。宿のあるじを三四郎といふ。
『小春紀行』
嘉永4年(1851年)4月6日、吉田松陰は箱根を越えて小田原へ。
嶺上に豆相の界あり、又驛あり、關あり。嶺を越えて小田原に宿す、海濱の地なり。城あり、大久保加賀守の居る所なり。
『東遊日記』
8月15日の
小田原空襲
で被災。
8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
小田原空襲の直前には、埼玉県
熊谷市
と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、計画されたものではありませんでした。
しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
8月15日の小田原空襲で被災した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道一号線をはさんで国際通りの両側にあたります。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並が映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
小田原空襲を伝える写真
今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
2007(平成19)年8月15日
戦時下の小田原地方を記録する会
古清水旅館 館主 清水伊十良
国道1号本町交差点に「小田原宿なりわい交流館」があった。
小田原宿なりわい交流館
昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、平成13年9月に開館。
お茶も無料で提供してくれる。
この建物は、関東大震災(大正12年)により被害を受けた建物を、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられています。また、2階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。内部の意匠も特徴的で、特に2階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れているなど、当時の小田原の時代背景を感じさせる貴重な建物です。
[出桁
(だしげた)
造り]
柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法。
小田原市
国道1号の南が千度小路(船頭小路)。
小田原かごせい
本店
があった。
やはり
関東大震災
時に被害を受け、大正13年に再築したそうだ。
戦災には遭わなかったようだ。
小田原やうゐらう匂ふ宵朧
『手折菊』
享和元年(1801年)2月29日、大田南畝は小田城下で外郎
(ういろう)
の店を見ている。
二十九日 よべより雨こぼすがごとくふりて、をやみなし。けふは名におふ箱根の山こえんに、かくてはあゆみぐるしかるべく、夜あけぬほどはつい松の火もうちけたるべきなど、 従者のかたみにいひあへるもことはりなり。これ王尊が馬をいさふ所と思ひおこして、卯時の酒二つきばかり傾け、従者にものませて出たつに、夜はほのぼのと明けわたりて、雨もやゝをやみぬ。城下のさまにぎはゝし。右のかたに、八棟づくりの家みゆるは、名におふ外郎の薬うるなるべし。
『改元紀行』
小田原の名物は外郎である。
此しゆくのめいぶつういろうみせちかくなりて 北
「ヲヤこゝの内は、屋根にでへぶでくまひくまのある内だ
弥二
「これが名物のういろうだ
北「ひとつ買て見よふ。味
(うめ)
へかの
弥二
「うめへんだんか。頤
(あご)
がおちらあ
北
「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな 弥二「ハゝゝゝゝ、こうもあろふか
ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じやと苦いかほする
『東海道中膝栗毛』
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