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街 道東海道


酒匂川の渡し

小田原市酒匂の酒匂橋の袂に「酒匂川の渡し」の碑があった。


酒匂川は、古くは「まりこ川」といった。

 弘安2年(1279年)10月28日、阿仏尼は丸子川を渡り酒匂に泊まる。

 丸子川といふ河を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂といふ所にとゞまる。明日は鎌倉へ入るべしといふ也。


 文明18年(1486年)、道興准后は「まりこ川」で歌を詠んでいる。

まりこ川にて、俳諧、

   鈴かけのくゝりを上けてまりこ川おひ綱かいつけふは暮さむ


酒匂川の渡し


酒匂川の渡しは、 東海道 五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝2年(1674年)船渡しが禁止されて、徒渡(かちわたり)制が施行され 、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足などの力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治4年(1871年)に廃止された。

 元禄5年(1692年)5月25日、貝原益軒は酒匂川を越える。

 廿五日。夜いまだあけざるに、やどりを出行ば、酒匂の川水ふかくして、川こしのおのこをあまたやとひてわたる。此里を酒匂と云、川を酒匂川と云。しかるに、さかはといへば世俗は川の名とのみおもへるはあやまれり。


 元文2年(1737年)5月20日、 佐久間柳居白井鳥酔 、鈴木戸凉を伴って江戸を立ち、箱根に向かう。

   酒匂を日暮てわたるに、
   川番所のともし火照あふ。

行燈を余所目に川は螢かな
   西奴


 宝暦6年(1756年)、白井鳥酔は東海道を大坂に向かひ、酒匂川を輦台で渡る。

酒匂川に望む。折から雨後の瀬例より汎漲とし目くるめきて、猶々老の足にかなふへからすと打詠居たるに、そこの村長鈴木氏杉鳥子は元より同門の交り深し、はからすもそこへ杖ひき來りやゝ日の影永う傾く迄語り別るゝに、ありあふをのことも數多下知せられて、輦臺といふものに打乘り人に骨をおらせて越けるは、翅に風を得たるに似たれは、一章をもて臺の歸りに乘せて謝す。

   蝶々や吹れてわたる川の上


 享和元年(1801年)2月28日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で酒匂川を渡る。

酒匂川の水落て瀬浅し。土橋三ツあり。三月六日には橋をひくといふ。河原広くして蛇籠などもみゆ。かの梶原が、ければぞ波はあがりける、といひけん鞠子川もこれなるべし。


 文化2年(1805年)11月17日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で酒匂川を渡る。

十七日夜明てたつ。酒匂川をわたり、梅澤をすぎ、大塚平塚をこゆるに、風出たり。馬入川をわたり、南湖をへて、藤澤の宿、藤兵衛がもとにやどる。


 嘉永4年(1851年)4月7日、吉田松陰は肩車で酒匂川を渡っている。

 一、七日 翳。卯後、 小田原 を發す。肩輿にて酒匂川を渡り、大磯・平塚を經てて、舟にて馬入川を渡る。


東海道五拾三次之内・小田原「酒匂川」(安藤広重)


「酒匂のかは」は 『東海道中膝栗毛』 にも出ている。

打わらひつゝあゆむともなしいつの間にか曾我の中むら小八わた八まんの宮を打すぎ、さかわ川にさしかゝりければ

   われわれはふたり川越ふたりにて酒匂のかはに〆てよふたり

此川をこへゆけば 小田原宿 のやど引はやくも道に待ちうけて、

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