このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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掛川城
〜掛川城御殿〜
東名高速自動車道掛川ICから掛川城に行ってみた。
永禄12年(1569年)、
徳川家康
が今川氏真を攻め、開城。
天正18年(1590年)、山内一豊が掛川城に入城。
山内一豊は2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公。
大河ドラマ「功名が辻」は見ていないが、
司馬遼太郎
の『功名が辻』は読んだ。
以後、徳川家普代の大名11家26代の居城として明治維新まで続く。
明治2年(1869年)、廃城となる。
掛川城大手門
嘉永5年(1854年)、嘉永の大地震で倒壊。
安政5年(1858年)、再建。
明治2年(1869年)、廃城にともない民間に払い下げられ、火災により焼失。
平成7年(1855年)、復元。
天守閣と太鼓楼
石段と四足門
掛川城公園から天守閣を見上げる。
掛川城天守閣
嘉永5年(1854年)、嘉永の大地震で倒壊。
平成6年(1994年)4月、復元。
平成18年(2006年)4月6日、
日本100名城
に選定される。
天守閣から掛川城御殿を見下ろす。
文久元年(1861年)、掛川城御殿再建。
国指定の重要文化財である。
玄関屋根の起破風
(むくりはふ)
県道37号掛川浜岡線は
旧東海道
。
掛川宿は26番目の宿場。
「本陣跡」の札があった。
江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣という。掛川宿の本陣は、連雀町の沢野弥三左衛門が寛永の始めから幕末までつとめた。屋敷規模は総坪数457坪余、表間口16間3尺3寸(約31m)あったといわれ、いかに広かったかが偲ばれる。
本陣の建物は、江戸時代に何回か火災にあい、その度に建て替えられた。その位置については、都市改造事業などにより当時の面影を残すものはなく、明確にはわからないが、現在地にあったと思われる。
明和8年(1771年)4月17日、諸九尼は掛川に泊まっている。
十七日 昼より雨そぼち降くらしぬ。掛川にとまる。
『秋風記』
享和元年(1801年)3月3日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で掛川を通りがかる。
掛川の城にいれば、家ごとに葛布うるもの多し。此城いにしへ今川氏真のこもれる城也とぞ。今の執政太田備中守殿
資愛
の城なり。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月13日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で掛川宿に入る。
掛川の宿にいれば十九首町、下俟町、西町、分中王町などいへる札かきて、町々の柱におしたり。江戸の城下の町の名をかけるにならへるなるべし。城門木戸にいれば西町、中町、連着町、二藤町、鹽町、木戸を出て新町あり。
『小春紀行』
嘉永4年(1851年)4月1日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、掛川に泊まる。
袋井に抵り、餐を傳ふ。懸川に宿す。太田攝津守の居る所なり。袋井・懸川の間、木柱を樹つ、書して曰く、「松平美作守知行所」と。申時、久留米侯懸川驛を過ぎて西上す。
『東遊日記』
「私の旅日記」
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