このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2009年
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西行公園
〜西行の歌碑〜
南部町西行に西行公園がある。
西行公園に西行の歌碑があった。
東の方へ修行し侍りけるに富士の山をよめる
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな
平成10年(1998年)6月30日、富沢町建立。
ふるさとの史跡
西行公園
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな
この歌は
西行法師
が文治2年(1186年、
平家が壇ノ浦
の戦いに敗れた翌年)68才の時、京から東国行脚の折駿河よりこの地に入り、噴煙がたなびいている富士山を見て詠んだもので、西行晩年の傑作であります。
西行法師は平安末期より鎌倉初期の歌人で、動乱の世に自然と旅を愛し当時第一の歌人とたたえられ、新古今集に最高の94首が残されています。
願はくは花のしたにて春しなむそのきさらぎの望月のころ
(わたしが願うことは、桜花の下で春死のうということ、それも釈尊が涅槃に入られた2月15日夜の頃)
と、かねて望んでいたように建久元年(1190年)2月16日河内の国の山里で72才の生涯をとじています。
西行という名前の由来は西行法師が東国行脚の途中、駿河の国より富士川に沿って甲斐の国に入り、この峠の下の村に庵を結び暫く住みました。故にこの村を西行村、峠を西行峠、峠までの坂道を西行坂と言います。
この西行法師ゆかりの西行峠は、かつての甲駿往還であり身延道であります。文永11年(1274年)5月に日蓮上人が
身延山
へ入山する時この峠を越えており、万治2年(1659年)8月に深草元政上人が西行峠の素晴らしさを漢詩に残しています。戦国時代に甲州武田軍の駿河攻めや
武田勝頼
追討の徳川軍もこの峠を越えています。
西行峠より見る富士山は「盆中の富士」といわれ、
御坂峠
、花水坂と並んで「富士見三景」と称せられています。大正初期に
大町桂月
(紀行文の第一人者)が富士見三景巡りにここを訪れ、西行峠のすばらしさを桂月全集に残しています。
南部町
元禄5年(1692年)5月21日、貝原益軒は西行坂越えて身延に向かう。
廿一日。万沢を出て、半里ばかりさきに、西行坂あり。其上に西行松とて大なる松あり。万沢より南部へ三里、南部より身延へ三里、すべて興津より身延まで十二里なれど、其間、深山幽谷にて路けはしく、河おほければ、かねておもひしよりは、はかゆかず。
『壬申紀行』
2003年3月1日、富沢町は南部町と合併、南部町となった。
西行公園から富士川を見下ろす
あいにくの曇り空で、富士山はよく見えなかった。
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