このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

昔の旅日記

天下茶屋〜『富嶽百景』〜
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 久し振りに箱根の強羅温泉に行く。まっすぐ箱根に行っても早過ぎる。天気が良いので、河口湖に行って富士山を見ようと思って、出掛けた。

朝7時前に出たが、首都高を抜けるのに2時間かかってしまった。

大月JCTから中央自動車道富士吉田線に入る。


早速、富士山。


河口湖ICで国道139号に入り、カーナビの指示通り三坂峠に向かう。

 国道137号三坂トンネルの手前を右折して、県道708河口湖御坂線(旧国道8号) を行く。

途中で三ッ峠に登る一団に出会った。

御坂隧道の手前に 天下茶屋(HP) がある。


天下茶屋が建築されたのは昭和9年秋のこと。

 昭和13年(1938年)の初秋、太宰治は「甲府市からバスに揺られて一時間」。御坂隧道を抜けて「御坂峠へたどり着く。」9月13日のことである。

 御坂峠、海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をしておられる。私は、それを知ってここへ来た。



 この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、昔から富士三景の一つに数えられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。

現在の天下茶屋は昭和58年4月1日に開店。


太宰治が滞在してから3代目にあたる。

太宰治は井伏氏と三ッ峠に登る。

 私が、その峠の茶屋へ来て二、三日たって、井伏氏の仕事も一段落ついて、ある晴れた午後、私たちは三ッ峠へ登った。三ッ峠、海抜千七百メートル。御坂峠より、少し高い。

部屋のガラス戸越しに、富士。


 私は、部屋のガラス戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。

 2階に太宰治記念室があり、太宰治が滞在した部屋を復元し、当時使用した「机」や「火鉢」などが置いてある。

 甲府へ行ってきて、二、三日、さすがに私はぼんやりして、仕事する気も起こらず、机の前に座って、とりとめのない落書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝転んで、金剛石もみがかずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで、小説は、一枚も書き進めることができなかった。

『富嶽百景』に「机」のことは2回出てくるが、「火鉢」は出てこない。

天下茶屋を少し登ったところに太宰治の文学碑がある。


富士には、月見草がよく似合う

 三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんも揺るがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

 昭和28年(1953年)10月31日、太宰治の文学碑として全国で最初に建てられたもの。

御坂隧道


昭和5年(1930年)10月着工、翌11月竣工。

 隧道のことは太宰治の『富嶽百景』に一度だけ出て来るが、ちょっと気が付かない。

 山を下る、その前日、私は、どてらを二枚重ねて着て、茶店のいすに腰掛けて、熱い番茶をすすっていたら、冬の外套着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんが二人、トンネルのほうから、何かきゃっきゃっ笑いながら歩いてきて、ふと眼前に真っ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちの一人、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやってきた。

太宰治が「山を下る」のは11月15日。

 昭和48年(1973年)8月12日、 富安風生 は御坂峠で太宰治の文学碑を見ている。

   三つ峠・御坂峠。自動車の通ずる限り三つ峠中腹まで登る 二句

たぎつ瀬に皮むき垂らす青林檎

峡空を稀に漂ふ蛾のありて

   御坂峠。太宰治文学碑 があり。文曰“富士には、月見草がよく似合う”

夏霧やペン字適ひし詩の章句

『齢愛し』

本栖湖 へ。

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