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私の旅日記2011年

桶狭間古戦場〜今川義元〜
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豊明市栄町南舘に桶狭間古戦場跡がある。


史蹟桶狭間古戦場


古戦場

 この地は永禄3年(1560年)5月19日今川義元が 織田信長 に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間あるいは舘狭間と呼ばれた。

 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771年)七石表が建てられた。文化6年(1809年)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。

   昭和12年12月21日   国指定史跡

豊明市教育委員会

 元禄5年(1692年)5月16日、貝原益軒は桶狭間で今川義元の墓を見ている。

其さき、鳴海と池鯉鮒の間、南の方、桶間(ハザマ)とて信長公の今川義元を打亡ぼし給へる所あり。大道の右の傍にあり。義元の墓あり。

 享和元年(1801年)3月5日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で桶狭間を訪れている。

輿より下りてみれば、ひろき小松原也。近比鳴海の千代倉氏、八の石表をたてり。その一ツには今川上総介義元戦死所 明和八年辛卯十二月十六日建 人見施主赤林□□ とあり。又、士隊将冢桶狭七石表之一とゑれるもの七ツ、所々にあり。


今川義元の墓があった。


今川治部大輔義元の墓

 駿府・遠江・三河の国主、今川義元は、西上の途中、永禄3年(1560年)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。

 以前、ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治9年5月に、この墓を立てた。

豊明市教育委員会

高徳院 に「今川義元公本陣跡」の碑がある。

 今川方の猛将岡部元信は 鳴海城 に配され、今川義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。

  徳川家康 (松平元康)は大高城で今川義元の戦死を知り、 岡崎城 に入った。

 嘉永4年(1851年)3月27日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、桶狭間で今川義元の墓に参拝している。

一、二十七日  晴。辰時、 笠寺 の前を過ぎ、鳴海・大濱を經て尾參の界に抵る。川あり界川と曰ふ。桶峽にて今川上總介義元及び諸將の墓を拜し、右に勒せる文を觀る、古を弔ひ今を悲しみ恨々として去る。


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