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私の旅日記
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2009年
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五智国分寺
〜芭蕉の句碑〜
上越市五智に
五智国分寺
(HP)がある。
天平13年(741年)、聖武天皇建立。
永禄5年(1562年)、
上杉謙信
再建。
天和3年(1683年)、
大淀三千風
は五智国分寺を訪れた。
さて名高き越後の護國山國分寺の大伽藍は、聖武帝御建立日域第一の五智尊、坐像五尺有餘、放光蓮臺に膝をならべて坐し給ふ。
『日本行脚文集』(巻之一)
宝永6年(1709年)、明式法師は五智国分寺を訪れている。
直江の浦いまは今町と云。安國山國分寺ほどちかし。五智の如來を禮す。抑當山は聖武帝の勅願にて、六十餘州に國分寺を建給ふ。そのひとつなりと、堂をめくつて、山有海有。
秋とても佐渡の弦藻
(つるも)
をこがね花
『白馬紀行』
国分寺山門
天保6年(1835年)に再建したと言われているそうだ。
山門を入ると、左手に
芭蕉の句碑
があった。
薬欄にいづれの花をくさ枕
三重の塔
安政3年(1856)、着工。
慶応元年(1865)、上棟。
国分寺本堂
平成9年(1997年)、再建。
天台宗
の寺である。
本尊は五智如来。
明和8年(1771年)4月、
加舎白雄
は
関川の里
を越えて北陸行脚に出発。五智如来に参拝している。
名だゝる五智の如来を拝みて、
芥子ちるや御仏達の爪はぢき
「北越紀行」
本堂の手前左手にも芭蕉の句碑があった。
古池や蛙飛こむ水のおと
国分寺裏門近くに鏡ヶ池がある。
親鸞聖人は鏡ヶ池に自らの姿を写し御真影を描いたといわれる。
天明2年(1782年)、田上菊舎は五智国分寺境内の鏡池を見ている。
これより先は、所謂こたの浜なり。爰を
過て国分寺有。境内に鏡池有。是即、他力
念仏一行と勧め玉ふ聖人の御面影を
自木像に刻ませ給ふ池なりと聞侍りて
着飾らぬ影こそすゞし鏡池
『手折菊』
文化3年(1806年)、
岩間乙二
は五智国分寺を訪れている。
五智にて
住はこゝ椎の風折月さして
『乙二句集』
竹之内草庵
承元元年(1207年)、親鸞聖人は越後の国に流罪となる。国分寺住職は境内に草庵を結び、親鸞聖人を住まわせたそうだ。
天保3年(1832年)、
小林葛古
は五智国分寺に参詣している。
本堂南向如来五体にて、聖武帝天平九年の草刹。文政十一年火災に掛るとぞ。本尊ともに新し。参詣の上、浜手
江
出る。境内に親鸞聖人五年草庵の旧地あり。
『五智まうで』
明治42年(1909年)6月5日、河東碧梧桐は高田から五智国分寺に詣でた。
六月五日。午前曇、午後雨。
雨中鶯池、暮雪、空哉、谷人等と直江津に遊んで、五智の国分寺に詣でた。
信州の額を磨し鼻を衝く山中に月余彷徨しておった目には、変化のない真平
ラ
な海、曲折のない直ぐな砂浜が、却て一種の快感を与える。幾分囹圄を脱したような心持である。
ゆうべから蚊帳を吊った。
『続三千里』
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