このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2012年
〜
中山道
高宮宿
〜紙子塚〜
高宮神社
から中山道高宮宿を行く。
中山道
高宮宿
高宮宿は、
中山道
六十九次のうち江戸から64番目、天保14年の記録によれば、町の南北の長さ7町16間(約800m)の街並に総戸数835・人口3,560で、
本庄宿
に次ぐ中山道第2の大きさ、本陣1、脇本陣2、旅篭23等の施設を持つ大宿であった。また多賀神社への門前町としてもにぎわい、多賀神社第一の鳥居がここに建っている。特産品として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を持っていた。
高宮街づくり委員会
元禄16年(1703年)、
岩田涼菟
は多賀大社の紅葉を見ている。
多賀大明神
此御神は神代のむかし伊勢の國より八府越を越
ましまして、此所に御鎮座有けるとかや。其山の
紅葉を見やりて
神風もあの山越や初紅葉
涼菟
『山中集』
多賀神社第一の鳥居の下に尚白の句碑があった。
みちばたに多賀の鳥居の寒さかな
『猿蓑』
の句である。
尚白
は芭蕉の高弟にして大津の医者なり。享保7年7月、没。73才。
明和2年(1765年)、
蓑笠庵梨一
は高宮宿から多賀大社に参詣している。
高宮の宿のうちに石の大鳥居あり、傍に石を建て多賀へ三十町と記せり、多賀は大社と称す。今はさまていふへき宮居にはあらねと、檜皮の厚葺きしんしんとして、楼門あり、末社あり、本社の菱垣、拝殿の蔀格子なと、猶いにしへ残るやうにて、亦小社ともいふへからす。鐘楼といひ、三重の塔といひ、さすかに昔しのはしくそ覚え侍る。
花咲て苔拝まする宮居かな
『大和紀行』
明和8年(1771年)4月5日、諸九尼は多賀神社に詣でている。
多賀の御社 にまうでけるに、雨しきりに、神さへなりけれ
バ
、門前にやどりもとめぬ。
『秋風記』
六拾五 木曽海道六拾九次之内 高宮
此駅は布嶋類を商ふ家多し。此ほとり農家に髙宮嶋細布多織出すなり。これを髙宮布といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許
『木曽路名所図会』(巻之一)
享和2年(1802年)3月4日、太田南畝は高宮の駅の様子を書いている。
高宮の駅、両がはの町にぎはゝし。高宮島
(縞)
の布うる家多し。宿の中なる右のかたに大きなる石の鳥居あり。多賀大社といへる額あり。是より廿町ありと云。又多賀大社道あり。左の方の木の間より遠く城の見ゆるは
彦根
なり。そのさま玉造のかたよりして、
大坂の城
を望むがごとし。又ふる城といへる山あり。これ
佐和山
なりといふに、
石田治部
少
(輔)
が事思ひ出らる。
『壬戌紀行』
古い家並みが続く。
昭和41年(1946年)1月30日、
山口誓子
は多賀神社の鳥居を見に行った。
読売新聞の「秀句鑑賞」(昭和四十年十一月二十六日)で私は尚白の
みちばたに多賀の鳥居の寒さかな
を取上げた。
私は以前からこの句が好きであつた。好きなこの句を鑑賞するには、まず第一に自分が納得するやうに鑑賞しなければならぬ。
この句の中心は「多賀の鳥居の寒さかな」である。
その「鳥居」は「みちばたに」立つ「多賀の鳥居」であるが、その鳥居に寒さが感じられるかどうか。
さうしぼつて行くと「みちばた」が問題になる。
その鳥居は『木曾路名所図会』にも描かれているように、旧中仙道の高宮の町中に立つてゐる。そこから道が岐れ、鳥居をくぐつて、三十一町奥の多賀大社へ通ずるのだ。
図会には、京から来た街道の角に仙台屋といふ宿屋があつて、溝川があつて、そして多賀大社の大きな鳥居が立つてゐる。
「みちばた」にはちがひないが、町中である。その大鳥居から私は寒さを感じないのだ。町寒くして鳥居寒しと感じないのだ。
同じ「みちばた」でも、野中のみちばただつたら、野寒くして鳥居寒しと感じと感じられるにちがひない。
さう考へて、私の記憶の中から一つの鳥居を思ひ浮べた。東海道線の上り列車で通つてゐるとき、高宮の西のあたり、右手に見える鳥居なのだ。そこは野中であるからその鳥居に野の寒さが感じられるのだ。
それで鑑賞では「みちばたに」立つ「多賀の鳥居」は、町中の鳥居ではなく、野中の鳥居だとしたのである。
(中 略)
太い石の鳥居だつた。柱の直径一米二十センチ。ざらざらした石だ。雪が鳥居の下にも残つてゐた。私は、町中ではあるが「みちばたに」立つこの太い石の鳥居から寒さを感じた。
多賀の鳥居
紙子塚があった。
芭蕉の紙子塚
たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子
貞享元年(1684年)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。
高宮街づくり委員会
『芭蕉翁句解参考』
(月院社何丸)にある。
『
俳諧
一葉集』
には「考 證」として「紙衾」とある。
貞亨元年(1684年)秋、芭蕉は
『野ざらし紀行』
の旅で近江路を通り大垣に向かう。
本陣跡があった。
本陣跡
江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、1軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396平米であったという。現在では表門のみが遺存されている。
高宮街づくり委員会
「私の旅日記」
〜
2012年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください