このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

佐和山城跡〜石田三成〜

彦根に佐和山城跡がある。


佐和山城跡

 佐和山城跡の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝える。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境い目の城として攻防が繰り返された。やがて湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開される事になる。

 信長・秀吉の時代にも佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。秀吉の代も堀秀政、堀尾吉晴、そして五奉行の石田三成の入城と、佐和山城に重きをおく姿勢は変わらなかった。この間、佐和山城は次第に整備され、山上に本丸以下二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内外には侍屋敷・町屋そして足軽屋敷などの城下町が形成された。

龍潭寺門前に「東山ハイキングコース入り口」がある。

石田三成公像があった。


 石田三成公は永禄3年(1560年)長浜市石田町に生れる。

 天資聡明 観音寺 での真心の献茶が出世の糸口となり、秀吉公に見込まれて長浜城で練成され、次々に出世し僅か26才で五奉行の筆頭に登った。

 秀吉の日本国平定に際しては東奔西走抜群の功績を挙げ、水口城主から佐和山城23万石の城主となったが、その稀に見る温情施政が住民の徳望を集めたことは、その没後ひそかに祠られた夥しい石田地蔵によっても偲ばれる。

 大河の赴くところその帰趨は自ら明らかであった関ヶ原の一戦に敢然立って潔く散った最期はまことに壮烈そのもの、まさに武士の鑑みというべきである。時に年41才。慶長5年(1600年)の秋であった。

 豊公より受けた恩義を忘れず終始一貫真心の生涯を送られた美徳は末永く称えられて世の模範となる。まさに智仁勇兼備の英傑として郷土に栄光を放つ。

 ここに有志相計って、公ゆかりのこの地に像を建て長くその遺徳を顕彰しようとする次第である。

   昭和57年(1982年)5月

彦根石田三成公顕彰会建之

 慶長5年(1600年)、徳川四天王の一人井伊直政は 高崎城 から佐和山城を与えられ、18万石の大名となる。城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602年)41歳で病没。

元和8年(1622年)、 彦根城 完成。

龍潭寺山門


佐和山城跡に行くには刻限が遅かった。

龍潭寺方丈に 森川許六 の襖絵があるそうだ。

私の旅日記2013年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください