このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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種田山頭火の句碑

ふるさとは遠くして木の芽

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防府市松崎町に防府天満宮がある。


防府天満宮の裏山に天神山公園がある。

天神山公園に大きな山頭火の句碑があった。


ふるさとは遠くして木の芽

昭和7年(1932年)3月21日、 嬉野 から早岐の間で詠まれた句。

夕方、一文なしのルンペンが来て酒を飲みかけて追つぱらはれた、人事ぢやない、いろいろ考へさせられた、彼は横着だから憎むべく憐れむべしである、私はつゝましくしてはゐるけれど、友情にあまり恵まれてゐる、友人の厚意に甘えすぎてゐる。

   ・ふるさとは遠くして木の芽


全国で一番大きな山頭火の句碑である。

『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、33番目の山頭火句碑。

自由律俳人種田山頭火

 本名は種田正一。明治15年、明治15年、 防府市八王子 に生れる。 松崎尋常高等小学校 、周陽学校(現・防府高校)卒業、早稲田大学を中退し帰郷後、防府市大道で酒造業を営み、かたわら 萩原井泉水 に師事し自由律俳句を学ぶ。

 大正14年(44歳)出家し、熊本県植木町に 「味取観音堂」 の堂守となったが、のち全国を行乞行脚する俳人となった。

 昭和7年、7年間の漂泊から小郡町に 「其中庵」 を結び、昭和13年、山口市湯田に 「風来居」 を、昭和14年、松山市に 「一草庵」 を結び、昭和15年10月11日未明、同庵にて没す。行年59歳。

 山頭火の独自な短律俳句の評価は極めて高く、俳名は全国に知られ「昭和の芭蕉」とまでいわれている。

 この句碑は昭和57年3月21日、生誕百年を記念し俳友 大山澄太 が建立した。

 なお、山頭火の句碑は、全国に多数ある。

防府天満宮

防府だけでも80基以上の山頭火の句碑があるという。

私は 山頭火 が防府の生まれだということをうかつにも忘れていた。

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