このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
一草庵
〜山頭火終焉の地〜
松山市御幸に一草庵があるというので、訪ねてみた。
一草庵は山頭火終焉の地
山頭火と一草庵
—
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
—
昭和14年(1939年)10月1日、ふらりと松山へやって来た山頭火は、12月15日、支援者の好意により、ここ御幸寺境内の、のちに「一草庵」と呼ばれる納屋に住んだ。
山頭火は、ここで俳友と「柿の会」を結成。賑やかに句会を催し、代表句集
『草木塔』
を刊行するなど、自らの生涯で最も落ち着いた安らかな生活を送っている。昭和15年10月11日早朝、脳溢血で死去。享年59歳。念願のころり往生であった。
昭和27年(1952年)10月、一草庵は老朽化が進んだため、山頭火顕彰会が35万円の浄財を募って改築、昭和55年(1980年)、顕彰会から松山市に寄贈された後、数回の修繕工事が施され、平成21年、周辺の環境整備に伴う改修によって、改築当時の面影が蘇った。
一草庵に4基の
山頭火句碑
があった。
鐡鉢の中へも霰
碑陰に「皇紀二千六百一年春分友人建立」とある。
昭和16年(1941年)3月21日、建立。
昭和7年(1932年)1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢(行乞)に出たときの句。
『行乞記』
に「今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる。」と記し、この句がある。この日、6里(約24km)を歩いた。
没後、初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、山頭火の髯(あごひげ)が納められている。
春風の鉢の子一つ
昭和48年(1973年)3月21日、山頭火の三十三回忌に
大山澄太
が建立。
昭和8年(1933年)3月19日、山口市小郡町での句。
『其中日記』に、句友3人が来庵、「其中庵稀有の饗宴がはじまった。よい気持で草原に寝転んで話した、雲のない青空、そして芽ぐみつつある枯草。道に遊ぶ者の親しさを見よ。夕方、それぞれに別れた、私は元の一人となった、さみしかった。」と記し、この句がある。「鉢の子」は、托鉢僧が使う容器。厳しい冬は「鉄鉢」、暖かい春は「鉢の子」と詠み方を変えている。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、10番目の山頭火句碑である。
濁れる水のなかれつゝ澄む
平成2年(1990年)10月10日、建立。
死の1か月前、『山頭火句帳』の昭和15年(1940年)9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。
この庵の前を流れる大川を詠んだ句であるが、自らの人生を観じた句でもある。20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、濁れる水のように心を曇らせながらもなお、逞しく自己をむち打ち続け、そこから自己の魂を取り戻そうと努めた山頭火の境涯が重なる。
一洵君に
おちついて死ねさうな草枯るる
平成6年(1994年)10月10日、建立。
昭和14年(1939年)12月15日、高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に入った山頭火は、日記に「私には分に過ぎたる栖家(すみか)である」と記し、その労苦に感謝し一洵にこの句を呈した。「死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じ」た山頭火が、一草庵を終の住処(すみか)とした境地である。
翌年3月には、改めて「おちついて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる。
一草庵
十二月十五日 晴。
昨日の飲みすぎ食べすぎがたたっている、朝酒数杯でごまかす。
午前、高橋さん来訪、厚情に甘えて、新居へ移った、御幸山麓、御幸寺の隠宅のような家屋、私には過ぎている、勿体ないような気がする。
高橋さんがいろいろさまざまの物を持って来て下さる、すなおに受ける、ほんとうに感謝の言葉もない、蒲団、机、火鉢、鍋、七輪、バケツ、茶椀、箸、そして米、醤油、塩。
『四国遍路日記』
「一草庵」の扁額
井泉水の書である。
昭和27年(1952年)10月11日、
荻原井泉水
は一草庵の山頭火十三回忌に出席。
今年の旅日記
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください