このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
2019年の旅日記
其中庵
〜種田山頭火〜
山口市小郡下郷に其中庵が復元されているというので、訪ねてみた。
其中庵入り口に小さな
山頭火の句碑
があった。
いつしか明けてゐる茶の花
昭和8年(1933年)、『層雲』発表の句。
『草木塔』
(其中一人)に収録。
平成6年(1994年)4月1日、小郡山頭火をしのぶ会建立。
寝牛の碑
この句碑は山頭火の没後10年にあたる昭和25年、
大山澄太
、伊東敬治、国森樹明など当時の友人等によって其中庵跡にたてられた。
其中庵に残された大理石の寝牛の置物にちなんで、栄山公園の谷間から形の似た自然石を選び出した。そして、山頭火の師である
荻原井泉水
によって「春風の鉢の子一つ」の句が選ばれ、仮名書きで刻まれた。
平成4年3月、其中庵の復元に伴い、現在地に移設された。
昭和8年(1933年)、『層雲』発表の句。
『草木塔』(行乞途上)に収録。
仮名書きで刻まれた文字
はるかぜのはちのこひとつ
荻原井泉水書。
何処へ行く。東の方へ行かう。何処まで行く。其中庵のあるところまで……。山頭火は其中庵をたずね歩いて本州へ。近郷の友人が労をとり小郡に結庵がきまる。昭和七年九月、廃墟を修理して入居、其中庵主となる。とき五十一歳。それから足かけ七年。経文形の句集を発刊し、井泉水も招き、友人に恵まれて安住する。だが、本来の奇行が重なり山頭火自身も、世話をする友人もつかれ果てた。おりからも庵も崩れようとする。昭和十三年十一月、山頭火は追われるように湯田へと去る。山頭火の死後十年、かつての友人は山頭火を忘れがたく、其中庵あとに句碑建立を思いたつ。牛の寝た姿を思わせる自然石を近くの栄山公園の谷間で発見し、一同は満足した。句は井泉水が選び「春風の鉢の子一つ」を、かな書きして送ってきたものを碑文とする。
・牛のようにねころんで眠るか 澄太
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)
昭和25年(1950年)10月11日、建立。
3番目の山頭火句碑である。
其中庵の井戸
其中庵のそばにあるこの井戸は、雨乞山からの水脈にあたり、深くはないが清い水が常に湧いていた。山頭火は、庵を構える場所の条件の一つに、水の良いところをあげていたが、其中庵の周辺の水は、遠方から茶席用にくみにくるほど味のよい水だったという。
雨の翌日などは濁り、隣りからもらい水をしていたというが、日々の山頭火の生活を支える水はこの井戸から得られた。
やつと戻つてきてうちの水音
(『其中日記』昭和9年4月29日)
朝月あかるい水で米とぐ
(『其中日記』昭和10年9月13日)
いま汲んできた水にもう柿落葉
(『其中日記』昭和10年10月4日)
其中庵内部
其中庵のいわれ
山頭火が好んだ言葉に、法華経の普門品第二十五にある「其中一人作是提言
(ごちゅういちにんさくぜしょうげん)
」という一節があります。
意味は災難や苦痛に遭ったとき、又は、苦痛に苛まれた時に、其の中の一人が「南無観世音菩薩」と唱えると、観世音菩薩は直ちに救いの手を差し伸べられて、皆を救われ、悩みから解き放たれるという事で、山頭火は結庵する時には庵名をその一節の中の「其中」にすると決めていました。
「其中庵」の語源は、この「其中一人」を自分に置きかえて、その一人が住む庵ということで「其中庵」となったのです。
山口市教育委員会
床の間の掛け軸
空へ若竹のなやみなし
出典は『草木塔』(雑草風景)。
其中庵
其中庵は、自由律俳人、種田山頭火が、昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。句作と行乞の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。
山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』
(さんぱく)
第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、山口市に居を移した。
現在の其中庵は、平成4年3月に当時の建物を復元したものである。
下関市の
近木圭之介
が作成された見取図によって、其中庵を復元。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください