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私の旅日記
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2011年
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岡山城
〜宇喜多氏〜
後楽園
から月見橋を渡り、岡山城へ。
岡山城
岡山城は
日本100名城
に選定されている。
岡山城(烏城)の歴史
備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573年)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経筥に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、天正18年(1590年)
秀吉
の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597年)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これか豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
秀家の築いた天守閣は、2階建の建物を大中小の2つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城
(うじょう)
」の別名かある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたか、第2次世界大戦による昭和20年(1945年)6月29日の市街地空襲により焼失した。
現在の天守閣は、昭和41年(1966年)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。
廊下門
宇喜多直家の備前統一
直家は、天文13年(1544年)に乙子
(おとご)
城主となり、その後、新庄山(奈良部)城、亀山(沼)城、龍ノ口城などを手に入れ、領地を広げてゆきました。そして、永禄10年(1567年)明禅寺合戦で三村元親の2万の大軍をやぶり、その地位を築き7ました。元亀元年(1570年)には当時の石山城主金光宗高から城を奪い、城主となり、備前、美作を統一して戦国大名となりました。
不明門
(あかずのもん)
表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閥のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉されていたことから、「不明門」と呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが、昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。
天守閣
備前の覇者宇喜多氏
岡山城をめぐる歴史に大きな影響を与えた宇喜多直家と秀家は、現在の邑久町にあった砥石城主宇喜多能家の直系で、直家が天正元年(1573年)石山城(旧岡山城)主となりました。その子秀家は慶長2(1597年)に現在の岡山城を築き、関ヶ原に敗れるまで2代にわたり岡山の発展に努めました。能家の孫にあたる直家が岡山城と城下町の基礎を築き、秀家がさらに大きく発展させたことになります。
波乱の生涯 関ヶ原西軍の秀家
天正10年(1582年)、
高松城
水攻めの時、石山城に入城した
秀吉
に協力した秀家は秀吉に可愛がられ、羽柴や豊臣を名乗る事を許されたほか豊臣政権の最高機関五大老の1人としての地位につきました。その五大老には徳川家康も含まれていました。
また秀吉の養女豪姫(前田利家の娘)を正妻とするなどしてその地位を確かなものとし、隆盛を極めました。
秀家は慶長5年(1600年)
関ヶ原合戦
で西軍に加わり敗れ、子供や孫とともに八丈島(現東京都)に流されて、岡山城主宇喜多氏は滅びました。
秀家は八丈島で約50年生活し、84歳で亡くなりました。
数奇なる半生 関ヶ原東軍の秀秋
小早川秀秋は、豊臣秀吉の北政所おね(ねね)の兄家定五男で、豊臣家の養子になり、おねに可愛がられ育ちました。
その後小早川隆景の養子となり、名島城(現福岡市)の城主となりました。
秀秋は慶長の役で、軍規を守らなかった事を
石田光成
に密告され、秀吉の怒りをかう事になったのが原因で光成を憎み、
関ヶ原合戦
で西軍から突如、東軍に加わる事になったと言われています。
天か分け目の決戦といわれた関ヶ原合戦での秀秋の行動は、その勝敗を大きく左右しました。最終的に東軍に加勢した秀秋は、その功により宇喜多秀家の旧領の中、備前・美作を与えられ、岡山城主となりました。
貞亨元年(1684年)5月24日、大淀三千風は岡山を訪れている。
廿四日備前岡山 繁昌の城下。俳の宗匠につく。
○ならはねど賓客暑氣に放氣
(をどけ)
たり
岡山俳林
定直
夜の窓のほたる目ざまし
『日本行脚文集』
(巻之三)
文化2年(1805年)10月26日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で岡山に泊まる。
城門にいれば兩側の人家賑ひありて、一町ごとに案内のものかはるかはる先だちゆく。城門に入て侍屋敷あり。市中に右のぼり道、左くだり道など石にゑりてたてたるあり。岡野屋吉兵衛のもとにやどれるに、雨いよいよふり志きりて、物さびし。
『小春紀行』
嘉永4年(1851年)3月14日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、岡山に泊まる。
備前の國に入り、岡山に宿す、池田侯の居城なり。市の廛上に鬻ぐ所、士人の往來する所を歴觀するに、文武の教果して能く熊澤を用ひし時の如きか。吾れは信ぜず。
『東遊日記』
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