このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2011年
〜
岡山後楽園
〜日本三名園〜
岡山市北区後楽園に
岡山後楽園
(HP)がある。
明治24年(1891年)8月、
正岡子規
は岡山後楽園を訪れている。
岡山後楽園 三句
鶴一つ立つたる秋の姿哉
はつきりと垣根に近し秋の山
秋さびた石なら木なら二百年
『寒山落木』
(巻一)
後楽園前の旭川畔に
「宵待草」の歌碑
があった。
岡山の後楽園は金沢の
兼六園
、水戸の
偕楽園
と共に日本三名園の1つ。
大正10年(1921年)3月23日、
斎藤茂吉
は後楽園を訪れているようである。
三月二十二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。
高松午後四時發、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等
學校に山宮・志田二教授を訪ひ、醫學専門學校に荒木(蒼太郎)
教授を訪ふ。市内(人力車)、城、後樂園
この園の鶴
(たづ)
はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴の子ひとつ
時もおかずここに攻めけむ古への戰のあと波かがやきぬ
元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり
『つゆじも』
延養亭
藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和35年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。
園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。現在もこの景観の保全につとめています。
能舞台・栄唱の間
能舞台の周囲の座敷は、能の見所
(けんしょ)
や接待の場として使われました。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せました。
次の藩主継政の時に改築され、戦災で焼失後、その間取りが復元されました。
大立石
巨大な花崗岩を90数個に割り、もとの形に組み上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせました。大名庭園ならではの豪快さと石の加工技術の高さがうかがえます。本園には石の割り方がわかる木型も残っています。
茂松庵
築庭当時、この辺りは山桜や楓、松で彩られた林で、建物は花葉軒と呼ばれていました。歴代藩主は、ここで茶を楽しみました。明治時代になり茂松庵と名が変わり、戦災で焼失後、園内で最初に復元されました。
流店
(りゅうてん)
中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石6個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えています。
廉池軒
戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や 対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えています。
園内に点在する亭舎の中で、築庭を指示した藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれています。 廉池軒からの眺望は水の景色に優れています。
千入
(ちしお)
の森
春の芽吹きと、錦織りなす秋の紅葉が美しい楓林で、古くから園内名勝の一つです。千入とは幾度も染めるという意味で、築庭当時からこの名が付いています。
梅林に中村憲吉の歌碑があった。
春さむき梅の疎
林をゆく鶴の高
く歩みて枝をく
ぐらず
アララギ派の歌人中村憲吉が昭和3年に詠んだ作品です。
茶祖堂
もとは利休堂といい、幕末の岡山藩家老の下屋敷から移築された茶室で、千利休を祀っていました。
戦災で焼失し、昭和36年に再建し、岡山出身で日本に茶を伝えた栄西禅師を合祀したため茶祖堂と改めました。
栄西禅師は
臨済宗
の開祖。
岡崎城が見えた。
昭和27年(1952年)5月28日、
水原秋桜子
は岡山後楽園を訪れている。
岡山後楽園
郭公や烏城にのこる角櫓
『残鐘』
月見橋を渡り、
岡崎城
へ。
「私の旅日記」
〜
2011年
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください