このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2006年
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偕楽園
〜好文亭〜
常磐神社
から偕楽園へ。
水戸の偕楽園は金沢の
兼六園
、岡山の
後楽園
とともに日本三名園の1つ。
偕楽園
偕楽園は「民と偕
(とも)
に楽しむ」遊園として、水戸藩第九代藩主徳川斎昭烈公(寛政12年(1800年)〜万延元年(1860年))が自ら造園計画の構想をねり、創設したものです。特に好文亭については、烈公が自らその位置を定めたといわれており、天保12年(1841年)から造園工事を行い、天保13年(1842年)に本園・桜山及び丸山が開園されました。
嘉永4年(1851年)12月26日、吉田松陰は偕楽園に行く。
好文亭を觀る、偕樂園は即ち是れなり。亭は一高壟なり。列べ植うるに梅樹棣棠
(ていとう)
を以てし、環らすに隍塹を以てす。
『東北遊日記』
偕楽園は梅の名所として有名だが、梅はほとんど咲いていなかった。
八重寒紅
明治22年(1889年)4月、
正岡子規
は偕楽園を訪れ、好文亭楽寿楼に登った。
二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず 此がけと沼の間に細き道を取りたるは汽車の通ふ處也 此樓のけしきは山あり水あり奥如と曠如を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし 余は未だ此の如く婉麗幽遠なる公園を見たることあらず 景勝は常に噂よりはあしきものなれどもこゝ許りは想像せしよりもはるかによかりき 好文亭と名づけしは梅を多く植ゑしためならん
『水戸紀行』
好文亭
木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿からなる。
昭和20年(1945年)8月、
戦災
で焼失。昭和33年(1958年)にもとの姿に再建した。
好文は梅の異名。晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に由来する。
明治39年(1906年)9月8日、河東碧梧桐は偕楽園を見に行った。
稲香庵氏東道、偕楽園を観る。
梅は多く園後の平地に規則正しく植えてあるのが、やや案外であった。広い芝生には萩が咲きそめておる。
好文亭に上って限なく見廻る。裂公の風流も、秀吉における利休、義政における相阿弥の如き人物があったらば、と思わしめる。
沓の跡芙蓉の下に印すらん。
『三千里』
梅の間
北原白秋の短歌が書いてあった。
梅の間よ今は眺めてしづかなり一際にしろき梅の花見ゆ
春早くここに眺むる誰々ぞ一樹のしろき寒梅をあはれ
『渓流唱』(水戸頌)に収録の歌。
昭和10年(1935年)2月、
北原白秋
が好文亭の梅の間に描かれている襖絵に心打たれ、「好文亭梅の間」と題して詠んだもの。白秋50歳の時である。
待合
(まちあい)
茶室に招かれた客が席の準備ができるまで控え待つ場所だそうだ。
正岡子規の句碑
へ。
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