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茂吉の歌
茂吉歌碑
『つゆじも』
大正8年(1919年)
九月十日。
天主堂
。
浦上天主堂無原罪サンタマリアの殿あるひは単純に御堂とぞいふ。
大正9年(1920年)
五月三十日。雷が丘、雨聲樓(
秋帆別邸
)辰巳にて夕餐會等を
催す
萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ
六月二十五日。六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今
日縣立病院に入院す。西二病棟七號室なり。菅沼教授來診
病ある人いくたりかこの室を出入りけむ壁は厚しも
ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑし病むしはぶきの聲も聞こゆる
闇深きに蟋蟀鳴けり聞き居れど病人
(やみびと)
吾は心しづかにあらな
七月二十四日。
島木赤彦
はるばる來りて予の病を問ふ
長崎の暑き日に君は來りたり涙しながるわがまなこより
よしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな
温泉嶽療養
大正九年七月二十六日。
島木赤彦
、土橋青村二君と共に温泉嶽
にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二
十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる
この道は山峡
(やまがひ)
ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ
この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか
赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが
草むらのかなしき花よわれ病みて生
(いのち)
やしなふ山の草むら
長崎
八月十四日。温泉嶽を發ちて長崎に歸りぬ。病いまだ癒えず。
十六日抜齒、日毎に歯科醫にかよふ。十九日
諏訪公園
逍遥。温
泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき
公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな
唐津濱
八月三十日。午前八時十五分長崎發、午後一時三十五分久保田發、
午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ
五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは
肥前なる唐津の濱にやどりして唖のごとくに明け暮れむとす
八月三十一日。木村屋旅館滞在。
城址にのぼり來りて蹲
(しやが)
むとき石垣にてる月のかげの明るさ
九月五日。高谷寛と滿島にわたる
松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや
九月十一日。午前九時五十六分唐津發、十二時半佐賀驛にて高
谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乘り、ゆふぐれ小城郡古湯
温泉に著きぬ
ねもごろに吾の病を看護
(みとり)
してここの海べに幾夜か寐つる
わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる
わたつみの海を離れて山がはの源のぼりわれ行かむとす
古湯温泉
九月十一日。佐賀縣小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三
日に至る
うつせみの病やしなふ寂しさは川上川のみなもとどころ
ほとほとにぬるき温泉
(いでゆ)
を浴
(あ)
むるまも君が情を忘れておもへや
砂濱に外人ひとりところがりて戯れ遊ぶ日本のをみな
鹽はゆき温泉
(いでゆ)
を浴みてこよひ寝む病癒えむとおもふたまゆら
ここに來て落日を見るを常とせり海の落日
(いりひ)
も忘れざるべし
温泉
(うんぜん)
の山のふもとの鹽の湯のたゆることなく吾は讃
(たた)
へむ
嬉野
十月二十日。小濱發、零時二十二分彼杵著
旅にして彼杵神社の境内に遊楽相撲見ればたのしも
祐徳院稲荷にも吾等まうでたり遠く旅来しことを語りて
透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限りもなしも
わが病やうやく癒えぬと思ふまで嬉野の山秋ふけむとす
十月二十五日、平戸行。平戸丸や旅館。小國李果に會ふ。崎方
町阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、
龜甲城址
、龜岡神社等
阿蘭陀の商人
(あきびと)
たちは自らの生業のためにこれを遺しき
あはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし
われは見つ肥前平戸の年ふりし神楽の舞を海わたり來て
十一月十四日。土屋文明氏と共に
春徳寺
を訪ふ
黄檗の傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ
浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光
(かげ)
の如や
大正10年(1921年)
大正九年十二月三十日。長崎發、熊本泊、翌三十一日
熊本
見物
を終り、同夜人吉林温泉泊。大正十年一月一日。林温泉より鹿
児島に至る。一泊
秀頼が五歳のときに書きし文字いまに殘りてわれも崇
(たふと)
む
球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの狭間に生れし子等ぞ
みぎはには冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる
櫻島は黒びかりしてそばだちぬ熔巖ながれしあとはおそろし
一月二日。夜宮崎神田橋旅館、三日
宮崎神宮
參拜
宮崎の神の社にまゐり來てわれうなねつく妻もろともに
神日本磐余彦の神の御光を源として永久に興らむ
一月三日。午後三時
青島
につき、廣瀬旅館投宿、第五高等學校
教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる
打寄する浪は寂しく南なる樹々ぞ生ひたるかげふかきまで
青島の木立を見ればかなしかる南の洋
(うみ)
のしげりおもほゆ
南より流れわたれる種子
(たね)
ひとつわが遠き代のことすぬばしむ
青島に一夜やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠き代や
一月六日。
太宰府
、觀世音寺、都府樓址、武雄温泉
觀世音寺都府樓のあともわれ見たり雜談をしてもとほりながら
三月十八日。午前九時四十二分博多發、十一時四十二分小倉著、
市中を見物し、ついで
延命寺
に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名
物おやき餅。
春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出して
公園の赤土のいろ奇兵隊戰士の墓延命寺の春は海潮音
三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高濱上陸、汽車
にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港
より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社參拜
年ふりし道後のいでゆわが浴
(あ)
めばまさごの中ゆ湧きくるらしも
大洋
(おほうみ)
をわれ渡らむにこの神を齋
(いは)
ひてゆかな妻もろともに
三月二十二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。
高松午後四時發、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等
學校に山宮・志田二教授を訪ひ、醫學専門學校に荒木(蒼太郎)
教授を訪ふ。市内(人力車)、城、
後樂園
この園の鶴
(たづ)
はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴
(たづ)
の子ひとつ
時もおかずここに攻めけむ古への戰のあと波かがやきぬ
元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり
長崎の晝しづかなる唐寺やおもひいづれば白きさるすべりのはな
長崎にて暮らししひまに蟲ばみし金塊集をあはれみにけり
墓前
龜戸の普門院なる御墓
(みはか)
べに水青き溝いまだのこれり
高原に足をとどめてまもらむか飛弾のさかいの雲ひそむ山
山のべににほひし葛の房花は藤なみよりもあはれなりけり
茂吉の歌
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