このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
浦上天主堂
〜水原秋桜子〜
長崎大学医学部
から浦上天主堂へ。
浦上天主堂
登録記念物
浦上天主堂旧鐘楼
1867年に始まった浦上四番崩れと呼ばれる大弾圧により全国に流刑にされた浦上のカトリック信者は、1873年に解放されたのち、聖堂の建設を計画します。
1895年にフレノ神父の指導の下起工した浦上天主堂は、貧しいながらも農作物を売って得た資金や、外国人からの寄付などを受け、石材や煉瓦を買い、信者の労働奉仕で運搬・建築され、紀行から19年もの歳月を経た1914年に完成しました。当初の天主堂には鐘楼がなかったため、当時の主任司祭のヒューゼ神父の計画のもと1925年に双塔が完成しました。
しかし、1945年8月9日原爆により天主堂は破壊され、北側の鐘楼は現在の位置まで崩れ落ちました。その後1959年に天主堂は再建され、この鐘楼は原爆により破壊された旧浦上天主堂の被害を、当時と同じ場所で物語る唯一の遺構となりました。
大正8年(1919年)9月10日、
斎藤茂吉
は浦上天主堂で歌を詠んでいる。
九月十日。天主堂。
浦上天主堂無原罪サンタマリアの殿あるひは単純に御堂とぞいふ。
『つゆじも』
昭和7年(1932年)2月5日、
種田山頭火
は浦上の天主堂を参観している。
二月五日 晴、少しばかり寒くなつた。
朝酒をひつかけて出かける、今日は二人で山へ登らうといふのである、ノンキな事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は水筒二つを(一つは酒、一つは茶)、私は握飯の包を提げてゐる、甑岩へ、そして帰途は敦之、朝雄の両君をも誘ひ合うて金比羅山を越えて浦上の天主堂を参観した、気障な言葉でいへば、まつたく恵まれた一日だつた、ありがたし、ありがたし。
昨日の記、今日の記は後から書く、とりあへず、今日の句として、——
・寒い雲がいそぐ(下山)
『行乞記(二)』
1945年10月の浦上天主堂
林重男撮影
昭和27年(1952年)5月23日、
水原秋桜子
は浦上天主堂を訪ねた。
浦上天主堂 五句
麦秋の中なるが悲し聖廃墟
堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ
残る壁裂けて蒲公英の絮飛べる
天子像くだけて初夏の蝶群れをり
鐘楼落ち麦秋に鐘を残しける
『残鐘』
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