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茂吉の歌
茂吉歌碑
『つゆじも』
・
『白桃』
明治39年(1906年)
みちのくの佛の山のこごしこごし岩秀
(いはほ)
に立ちて汗ふきにけり
明治41年(1908年)
とうとうと喇叭を吹けば鹽はらの深染
(こぞめ)
の山に馬車入りにけり
しほ原の湯の出でどころとめ來ればもみぢの赤き處なりけり
『赤光』
大正2年(1913年)
悲報来
ひた走るわが道暗ししんしんと怺
(こら)
へかねたるわが道くらし
ほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし
すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
氷室より氷をいだす幾人かわが走る時ものを云はざりしかも
七月三十日信濃
上諏訪
に滯在し、一湯浴びて寢ようと湯壺に浸
つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直
ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。
一本道
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
死に近き母の添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
死に近き母が額を撫りつつ涙ながれて居たりけるかな
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
わが母を燒かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
灰のなかに母をひろへり朝日子
(あさひこ)
ののぼるがなかに母をひろへり
大正3年(1914年)
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
大正4年(1915年)
海濱雜歌
腹あかき舟のならべる濱の照り妻もろともに疲れけるかも
みちのくの勿來へ入らむ山かひに梅干ふふむあれとあがつま
折々の歌
龜戸の普門院にて三年經し伊藤左千夫のおくつきどころ
墓に來て水をかけたり近眼の大き面
(おも)
わの面影に立つ
水ぐさの圓葉
(まろば)
の照りをあはれめり七月ひるのおくつきどころ
あしびきのやまこがらしのゆく寒さ鴉のこゑはいよよ遠しも
大正5年(1916年)
ふるさとの藏の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり
五日ふりし雨はるるらし山腹に迫りながるる吾妻のさ霧
『あらたま』
大正6年(1917年)
あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍に降る寒き雨
しらぬひ筑紫の國にしはぶきつつ一夜ねにけり
しづかなる港のいろや朝飯
(あさいひ)
のしろく息たつを食ひつつおもふ
朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山
『あらたま』
大正14年(1925年)
丸山の夜のとほりを素通りし花月のまへにわれは佇む
みなみより音たてて來し疾きあめ大門外の砂をながせり
くにぐにの城にこもりし現身
(うつせみ)
も高野の山に墓をならぶる
紀伊のくに高野の山に一日ゐて封建の代の墓どころ見よ
大正15年(1926年)
二つ居りて啼くこゑきけば相呼ばふ鳥が音かなし山の月夜に
月よみの光くまなき山中に佛法僧といふ鳥啼けり
高遠
十一月八日信濃國高遠町に繪島の墓を弔ふ
あはれなる流されびとの手弱女
(たわやめ)
は媼
(おうな)
となりてここに果てにし
みすずかる信濃の國の高遠にかなしき墓を吾も見つるかも
『ともしび』
昭和2年(1927年)
第四回安居會
自八月二日至八月六日於
永平寺
あかつきに群れ鳴く蝉のこゑ聞けば山のみ寺に父ぞ戀
(こほ)
しき
上林温泉
歌會
一首
秋さむくなりまさりつつ旅を來て北信濃路に鯉こくを食ふ
信濃行
其三
たどりこしこの奥谷に家ありて賣れる粽はまだあたたかし
湯田中の河原に立てば北側ははつかに白し妙高の山
昭和3年(1928年)
仙臺
みちのくに來しとおもへば樂しかりこよひしづかに吾はねむらむ
さ夜ふけと更けわたるころ海草のうかべる風呂にあたたまりけり
朝がれひ君とむかひてみちのくの山の蕨を食へばたのしも
わがこころ和ぎつつゐたり川の瀬の音たえまなき君が家居に
いとまなき吾なりしかどみちのくの仙臺に來て友にあへるはや
志津
七月二十九日
月山にはだらに雪の殘れるを三人ふりさけ心樂しも
黒々としてつづきたる森の上に月山の膚
(はだへ)
斑
(ふ)
に見えそめつ
わが父も母もなかりし頃よりぞ湯殿のやまに湯は湧きたまふ
新庄に汽車とまるまもなつかしき此國びとのおほどかのこゑ
出羽三山
いつしかも月の光はさし居りてこの谷間より立つ雲もな
みちのくの湯殿の山に八月のこほれる谿をわたりつつゆく
常ならぬものにもあるか月山のうへにけむりをあげて雪とくる見ゆ
『ともしび』
昭和4年(1929年)
最上川行
昭和四年九月十四日大石田に來りて偶最上川の濁流を見る。
ついでに左澤百目木を訪ふ
秋に入るみちのく山に雨降れば最上川のみづ逆まき流る
大石田の橋をわたれば汀
(みぎは)
までくだりて行きぬ水したしみて
元禄のいにしへにして旅を來し芭蕉の文字をここにとどむる
左澤の百目木
(どめき)
たぎちて最上川ながるるさまも今日見つるかも
最上川のさかまくみづを今日は見て心の充つるさ夜ふけにけり
われいまだ十四歳にて庄内へ旅せし時に一夜やどりき
さ夜なかとなりたるころに目をあきて最上川の波の音をこそ聞け
『たかはら』
昭和5年(1930年)
立石寺の蝉を聞かむと來しかども雨降り蝉は鳴くこともなし
南谷ふりにし跡にわが來ればかすかにのこる河骨の花
おのづから杉の落葉はつもりつつ南谷道足をうづむも
いづかなる蘆
(よし)
の茂りも年を經て見る人もなしここ南谷
いにしへの芭蕉翁のこの山に書きのこしたる三日月の發句
南谷におもかげ遺
(のこ)
る池の水時を過ぎたる蛙のこゑす
最上川
七月二十四日午後五時十五分狩川驛發にて歸途にむかふ。同
日上山山城屋宿泊
最上川水
(み)
かさまさりてけふもかもわがゆく汽車の方よりながる
うつせみのわが身に近く最上川川面
(かはのも)
ひくしみなぎり流る
芭蕉も元禄二年このあたり舟にて過ぎけむか
古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
高野山
八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六回
安居會を開く
ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を超えにき
ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野の山に水おちたぎつ
紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける
高野山あかつきがたの鉾杉に狭霧は立ちぬ秋といはぬに
『たかはら』
昭和6年(1931年)
瑞巌寺
ちちははが幾たび話したまひけるほとけの寺にわれは來にけり
きさらぎはいまだも寒し雪のまにはつかに見ゆる砂は氷りぬ
京都
醍醐寺
帝釋天像
いにしへは尊かりけりひれふしてこの白き象もつひにきざみぬ
楢山の雨は晴れつつ曇る日を殺生石に死ぬ鳥を見し
窿應上人
昭和六年八月十日曉天窿應上人近江
蓮華寺
に遷化したまふ。
御年六十九にいましき
信濃路にわがこもれりしあかつきや窿應上人の息たえたまふ
番場なる蓮華寺に鳴くこほろぎのこゑをし待たず逝きましにけり
柿紅葉
朝ゆふはやうやく寒し上山
(かみのやま)
の旅のやどりに山の夢
(いめ)
みつ
鳴子途上
新庄をわがたちしより車房には士官ふたりが乘込み居りつ
石巻の日和山より見ゆるものとほき渚にかぎろひたちぬ
わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに
おのづから硫黄の香するこの里に一夜のねむり覺めておもへる
元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり
中尊寺
行
水上へとほくきらへる北上川の流かはりてより年は古りにき
妻とふたりつまさきあがりにのぼりゆく中尊寺道寒さ身に沁む
日は晴れて落葉のうへを照らしたる光寂けし北國にして
義經のことを悲しみ妻とふたり日に乾きたる落ち葉をありく
石巻の日和山より見ゆるものとほき渚にかぎろひたちぬ
わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに
鹽釜
わが舟は音を立てつつ海なかに牡蠣養へるちかくをぞ行く
ひゆうひゆうと寒さ身にしむ午後四時に松島を出でつ小舟に乘りて
松島の海を過ぐれば鹽釜の低空かけてゆふ燒けそめつ
鹽釜の神の社にまうで來て妻とあらそふことさへもなし
鹽釜の社に生ふる異國
(ことぐに)
の木の實をひろふ蒔かむと思
(も)
ひて
この城に吾も一たび來りつとかへりみむ記憶も幽かになりて
たえまなく冬の白雲のながらふる子持山のべゆふぐれむとす
伊香保呂をおろして吹ける風をいたみ庭のくぼみにもみぢば散るも
『石泉』
昭和7年(1918年)
朝寒をあはれとおもひ吾汽車のしめし玻璃窓
(はりど)
に顔を寄せつつ
層雲峡
八月二十三日、層雲峡に遊ぶ。守谷富太郎、高橋四郎兵衛、
石本米藏同行せり。ゆふぐれてひと夜やどりぬ
朝日岳十勝岳見ゆみんなみに石狩岳はかた寄りにけり
宋人がさびしみしごと山のうへより音の聞こゆる瀧見つつをり
釧路
途上
帶廣を汽車いでてよりややしばし東のかたに虹たちにけり
北國の釧路の町はともしびもあかあかとつきにぎはふところ
ぬばたまの夜のくらきにとどろける釧路の濱もわが見つるかも
阿寒湖
行
秋にむかふ野をよろしみとあらくさの秀
(ひい)
づるかぎり秀
(ひい)
でつるもの
舟に乘りて阿寒の湖を漕ぎためば思ひも愛
(かな)
しこの縁
(えにし)
はや
阿寒湖の島の木立に蝉のこゑ聞こえつつ居りときどき中絶
(とだ)
ゆ
湖
(うみ)
ぞこに毬藻の生ふるありさまを見むと思ひて顔を近づく
一たびは見むと思ひてあひ見つる雄阿寒の山雌阿寒の山
雌阿寒の火を吹く山に人おほくのぼりて行くにわれは行かぬに
阿寒川のながるる谿を見下せり二たびは來むわれならなくに
支笏湖
七たりが支笏湖に來て立ちながら見て居たりけり降りみだる雨
白雲のひろごりはてしとばかりに冷たき雨は湖に降る
登別
登別にひと夜やどりて寄りあへる湯治の客のなかに親しむ
登別に飼ひゐし熊を見て居れば山のままなる熊しおもほゆ
九月三日登別温泉をたち、登別驛九時七分發、長萬部行の汽
車に乘る。車房雜吟。
大沼公園
を見、函館に着く
馬も牛も雨に濡れつつゐる見れば長雨ふりて秋立つらむか
白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ
禮文華に連續したる隧道
(とんねる)
をやうやく出でて静狩のうみ
片がはに草木生ひつつ駒ヶ嶽の裾野は引きて海に入る見ゆ
駒ヶ嶽の裾野は引きてひろごれば柏の木立幾里つづきぬ
湯川即時
九月四日高橋四郎兵衛とともに函館市外
湯川温泉
にやどりぬ。
武藤善友君等と會す。雨大に降る
しほはゆき湯のたぎり湧く音ききて海まぢかしとおもほえなくに
十和田湖
九月五日、飛鸞丸に乘り函館出帆、青森著。汽車にて古間木。
驛下車、三本木より乘合自動車にて十和田にむかふ。六日午。
前十和田にあり
奥入瀬の川浪しろくながるるを幾時か見て國のさかひ越ゆ
この谿にわきかへりくる白浪を見つつ飽きかねどわれは去りゆく
あさ明けて十和田のうみを弟ともとほり居てり母をしぞおもふ
あさ明けしうみの低空をひとしきりくびをのばして鵜のわたる見ゆ
東谷よりひとときにしてあふれくるさ霧は湖のうへにたゆたふ
『石泉』
昭和10年(1935年)
九月十九日
子規忌にひとり來りて
御墓
にまうづ
大龍寺の門を入りつつ左手にまがりて行きぬ君がおくつき
この墓に水をそそぎて「いつまでも苔はむさず」といひし詞の大人
(うし)
はも
『曉紅』
昭和11年(1936年)
木曾福島
十二年ぶりに來りし木曾の町におどおどとして講演を了
(おは)
る
駒ヶ嶽見えそめけるを背後
(そがひ)
にし小さな汽車は峡
(かひ)
に入りゆく
上松の驛いでてよりいつしかも傾く天
(あま)
つ日に吾等はむかふ
寢覺の床
渦ごもり巖垣淵
(いはがきぶち)
のなかに住む魚をしおもふ心しづけさ
白き巖
(いは)
のひまにたたふる深淵の湧きかへるものを見すぐしかねつ
四年前わが見たるごと苔のみづ流れゐたれば足をとどめつ
白き湯をいくたびも浴みこもりたるこの部屋いでてわれ行かむとす
『曉紅』
昭和12年(1937年)
松山道後
城山に高くのぼりて日にきらふ古ぐに伊豫はわれのまにまに
正宗寺の墓にまうでて色あせし布團地も見つ君生けるがに
琴平
より高砂加古
金毘羅の荒ぶる神をみちのくの穉
(をさな)
き吾に聞かせし母よ
金毘羅の神います山晴れたるにあへぎて登り忽ちくだる
湊より淡路の島を横ぎれば鳴門うづしほ見ることもなし
酒宴
(さかもり)
にもろごゑ響き洲本なる旅の宿りに一夜いを寐ず
『寒雲』
腦病院火事としいへば背筋よりわれ自らの燃ゆらむとせり
昭和13年(1938年)
金時山
一方
(ひとかた)
は高萱にして一かたの木立のなだれ粗くあらしも
現なる眼下
(ました)
とほきを火をあげし山のなごりと見つるけふかも
霧うごくとばかりに香ごもりてあやしと思ふ谷あひ行くも
をやみなき雲に觸りさびしきまでに箱根の峡を見おろしにけり
身みづからこの山の上に居りにけり近きごと天つ日わたり時ゆくや
十一月六日電報來
山西のあたりにてか戦死せる中尉をおもひ一夜ねむれず
むなさわぎせしこと一再にとどまらず九月以來通信も斷えて居りにき
あやしくも動悸してくる暗黒を救はむとして燈をともす
十月二十七日山西省絳縣薫封村にて陸軍中尉
山口隆一
戰死す
漢口陥ちてとどろきし日に山西の小さき村に戰死をしたり
山口隆一
官報にて吾は知れども自らの中尉になりし手紙まだ來ず
『寒雲』
昭和14年(1939年)
歌碑行
いただきに寂しくたてる歌碑見むと藏王の山を息あへぎのぼる
七月八日
歌碑
を見むと藏王山に登る同行岡本信二郎、河野
與一、河野多麻、結城哀草果、高橋四郎兵衛の諸氏
歌碑のまへにわれは來りて時のまは言
(こと)
ぞ絶えたるあはれ高山や
わが歌碑のたてる藏王につひにのぼりけふの一日をながく思はむ
雜歌控
賀壽
わが父の兄の治右衛門伯父こそは九十二歳の老に入りけれ
大君もほめたまひたる伯父のきみはいのち長くて國の寶ぞ
甥茂吉五十八歳にしてよろこびぬ九十二歳の伯父治右衛門を
餅あまたくひ飽かぬてふ伯父のきみを今壽老人とわれ申しける
金瓶が金谷のころに生れたる伯父をおもへば年ふりにけり
『寒雲』
昭和14年(1939年)10月
霧島林田温泉
この山にわが著きぬれば暮れかかる櫻島より煙は絶えつ
霧島の山のいで湯にあたたまり一夜を寢たり明日さへも寢む
大きなるこのしづけさや高千穂の峯の総べたるあまつゆふぐれ
南なる開聞岳の暮れゆきて暫くわれは寄りどころなし
霧島神宮
・参拜歩道
御前三時霧島山の大神にまうでむとして眼をあらふ
霧島の神の社にぬかづくとあかとき闇をい往く五人
(いつたり)
指宿
しほはゆきいで湯の中にしづまりて高千穂の山をおもひつつ居り
枕べに濤の音きこえ重々しくとどろく中に蟋蟀のこゑ
くらやみの夜にきこゆる濤のおと夜もすがらにてしばしば目ざむ
大隅の高隅山に雲ゐつつひむがし風は海ふきやまず
なぎさにも湧きいづる湯の音すれど潮満ちきたりかくろひゆくも
指宿植物試驗場
此處にしも湯は湧きいでて熱帶の花等もからくれなゐに咲けり
佛桑華にほへる見ればしひたぐるもの無き此處に咲きにほふらめ
池田湖・枚聞神社
大きなる湖ありと思ひきや開聞が嶽映るなりとふ
玉の井に心戀
(こほ)
しみ丘のへをのぼりてくだる泉は無しに
枚聞の神の社にをろがみてわたつみの幸をあまた眼に視し
たわやめの納めまつりし玉手筥そのただ香にしわが觸るごと
磯島津邸
たかむらは青き光を放つとぞ知りぬるわれはしばし離れつ
あるときは潮の波も照りかへすここのみ園の石のうへのつゆ
關門
雨しぶく關門海峡の船に乘り二十二年の來し方おもほゆ
海峡の船の上にて群集も會ひたてまつる聖きもの一つ
雨雲のみだれ移るを車房よりわが見つつ居り關門の海
福岡も熊本もつひに過ぎぬればわが眼光
(まなかひ)
に友のおもかげ
南より北にむかひてうごく雲薩摩に近き海のうへの空
『のぼり路』
昭和15年(1940年)
殿臺
成東町の殿臺といふところ元治元年君は生れき
左千夫先生生れたまひし家に來て疊の上に暫し立ちけり
温海
夜をこめて朝市たてば男女
(をとこをみな)
ひとごゑぞする湯の里ここは
朝々に立つ市ありて紫ににほへる木通
(あけび)
の實さへつらなむ
『のぼり路』
昭和16年(1941年)
相川の金鑛山のひびきをも眞近に聞きてのぼり來りぬ
いつくしき五重の塔の立てる見つ佐渡のこころは淺からなくに
彌彦山
ほのぐらき山の朝路ひとりゆく七曲ともいひをる道を
四月二十九日
杉山に松はらまじりしげりたる彌彦のやまをめぐりてのぼる
『霜』
昭和17年(1942年)
をさなくて見しごと峯のとがりをる三吉山は見れども飽かず
『霜』
昭和19年(1944年)
一月九日、山口隆爾中尉山西にて陣歿す
君が兄のことをしのべば山西にはらから二人いのちをはりき
「短歌拾遺」(昭和19年)
昭和20年(1945年)
上
ノ
山・金瓶雜歌
昭和二十年二月十六日夜、上野驛を立ち、十七日上ノ山著、
上ノ山の裏山あたりを歩きて作歌、金瓶村に移る。三月六日
上ノ山發、仙山線、常磐線、三月七日東京著。四月十日東京
を發ち十一日上ノ山著。十四日より金瓶移居
松山に杉山つづき雪ふればただにうつきしみれど飽かなくに
南より止まずうごける白雲は山脈
(やまなみ)
のうへに即きて離れず
わきいづる音のきこゆる弘法水雪あゆみ來て我心なごむ
疎開漫吟(一)
昭和二十年四月十四日より、金瓶村齋藤十右衛門方に移り住
む。をりをりの歌
かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌
(たふさぎ)
をみづから洗ふ
藏王山その全けきを大君は明治十四年あふぎたまひき
夏されば雪消わたりて高高とあかがねいろの蔵王の山
白萩は寶泉寺の庭に咲きみだれ餓鬼にほどこすけふはやも過ぐ
松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき
遠のひびき
秋風の遠のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど早く寐(いね)にき
ひむがしに直
(ただ)
にい向ふ岡に上り藏王の山を目守りてくだる
殘生
すでにして藏王の山の眞白きを心だらひにふりさけむとす
『小園』
昭和21年(1946年)
上ノ山に籠居したりし澤庵を大切にせる人しおもほゆ
螢火を一つ見いでて目守りしがいざ歸りなむ老の臥處に
西田川のこほりにたどりつきしかば白波たぎつ岩のはざまに
海つかぜ西吹きあげて高山の鳥海山は朝より見えず
もえぎ空はつかに見ゆるひるつ方鳥海山は裾より晴れぬ
元禄のいにしへ芭蕉と曾良とふたり温海の道に疲れけらしも
かすかなる時宗の寺もありなが堅苔澤の磯山くもる
新庄にかへり来りてむらさきの木通
(あけび)
の実をし持てばかなしも
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
青山にて燒けほろびたる我家に惜しきものありき惜しみて何せむに
昭和22年(1947年)
雪しろき裾野の斷片見ゆるのみ四月一日
(いちにち)
鳥海くもる
殘雪は砂丘のそばに見えをりて酒田のうみに強風ふけり
最上川海に入らむと風をいたみうなじほの浪とまじはる音す
おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする
おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする
三倉鼻に上陸すれば暖し野のすかんぽも皆丈たかく
酒田
魚くひて安らかなりし朝めざめ藤井康夫の庭に下りたつ
十月二十一日
安種亭のことをおもひて現
(うつつ)
なる港に近き道のぼりけり
下の山は今の本町三丁目不玉のあとといへば戀
(こほ)
しも
酒田なる伊東不玉のあとどころ今は本町三丁目にて
「酒田」補遺
象潟
象潟の蚶滿禪寺も一たびは燃えぬと聞きてものをこそ思へ
あかあかと鳥海山の火を吹きし享和元年われはおもほゆ
『白き山』
○〔四月酒田市山王ホテルのために〕
ゆたかなる最上川口ふりさけて光が丘にたてるけふかも
○〔九月
肘折温泉
にて〕
肘折のいでゆ浴みむと秋彼岸のはざま路とほくのぼる樂しさ
○ 〔伊東市佛現寺の鐘に〕
朝ゆふに打つ鐘の音はあまひびき地ひびき永遠にひびきわたらむ
『短歌拾遺』
昭和23年(1948年)
みほとけの大きなげきのきはまりを永遠
(とは)
につたへてひびきわたらむ
昭和25年(1950年)
萬國の人來り見よ雲はるる蔵王の山のその全けきを
『つきかげ』
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