〜句碑巡り〜
福井と言ったら、永平寺
であろう。
寛元2年(1244年)、永平寺創建。開基は道元禅師。
曹洞宗
大本山の寺院である。
元禄2年(1689年)8月11日、芭蕉は
天龍寺
から永平寺を訪れている。
五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。
『奥の細道』
勅使門(唐門)
享保6年(1721年)、
露川
は門人燕説を伴い永平寺に参詣している。
吉祥山永平寺
に詣
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諫鼓鳥山は千衆を入れながら
| 無外
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永平寺川に架かる橋
大正14年(1925年)9月1日、
荻原井泉水
は永平寺に泊まっている。
松の木の影の深い山を越えると、夕日の色のうっすりとさしている麓の小さな部落に出た。そこが永平寺の門前だった。門前にも宿の看板をあげた小さな家があるけれども、私達は寺にとめて貰うこととして門を入った。大きな松の木に蜩がすずしく鳴いている境内には、数多い堂や衆寮が段々に高みをなし、又右に左に列って、それ等が悉く廻廊を以てつなげられていた。
玲瓏の滝
昭和2年(1927年)8月1日、
斎藤茂吉
は東京を立って、永平寺のアララギ安居會に出席した。
第四回安居會 自八月二日至八月六日於永平寺
あかつきに群れ鳴く蝉のこゑ聞けば山のみ寺に父ぞ戀(こほ)しき
『ともしび』
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、永平寺を訪ねた。
越前福井より輕鐵で永平寺に行く、お寺は立派なお寺、参詣の人々の爲に、玄關に俗の5、6人も机をひかへ、今普請で中々のにぎはひ、よく新聞で、管長争ひの騒ぎを見るほどの、富有熱閙寺、杉の木立の間に、唐風の建築、山門前の晝食に蕎麥をしたゝめ、又福井へ取つてかへす、
傘松閣の天井画
昭和6年(1931年)1月7日、
与謝野晶子
は永平寺を訪れている。
永平寺法のみやこの石橋をくぐれる水のうつくしきかな
山法師追ひ給はねど日の入りてひと時のちの永平寺出づ
「深林の香」
階段状の回廊
昭和18年(1943年)11月16日、
高浜虚子
は永平寺を訪れている。
滝風は木々の落葉を近寄せず
廻廊を登るにつれて時雨冷え
木々紅葉せねばやまざる御法かな
今も尚承陽殿に紅葉見る
十一月十六日 越前永平寺。
『六百句』
通用門を出ると、
高濱虚子
・熊澤泰禅・伊藤柏翠の句碑があった。
殊にこの御法の梅の早きかな
| 熊澤泰禅
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今も尚承陽殿に紅葉見る
| 高濱虚子
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雪深く仏も耐えて在しけり
| 伊藤柏翠
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熊澤泰禅は永平寺第七十三世貫首。
福井の俳人伊藤柏翠を通じて高濱虚子と親交を結んだそうだ。
昭和55年(1980)11月、熊沢禅師十三回忌を記念して句碑建立。
大正15年(1926年)4月、種田山頭火は行乞漂泊の旅に出て全国を行脚。
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)
生死の中の雪ふりしきる
木の葉散る歩きつめる
種田山頭火
の句碑もあった。
てふてふひらひらいらかをこえた
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水音のたえずして御仏とあり
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生死の中の雪降りしきる
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昭和11年(1936年)7月4日、
種田山頭火
は永平寺を訪れ、参籠している。
七月四日 晴。
どうやら梅雨空も霽れるらしく、私も何となく開けてきた。
野宿のつかれ、無一文のはかなさ。……
二里は田圃道、二里は山道、やうやくにして永平寺門前に着いた。
事情を話して参籠——といつてもあたりまへの宿泊——させていたゞく。
永平寺も俗化してゐるけれど、他の本山に比べるとまだまだよい方である。
山がよろしい、水がよろしい、伽藍がよろしい、僧侶の起居がよろしい。
しづかで、おごそかで、ありがたい。
久しぶりに安眠。
七月十九日 晴。
永平寺
てふてふひらひらいらかをこえた
水音のたえずして御仏とあり
「生死の中の雪ふりしきる」の句は永平寺で詠んだ句ではない。
平成2年(1990年)7月9日、永平寺山頭火句碑奉賛会建立。
昭和29年(1954年)9月27日、
水原秋桜子
は永平寺を訪れている。
二十七日、永平寺にて
蕎麦咲けり雲水峡(かい)をいできたる
大野分すぎて法堂(はつとう)揺らぐなし
『玄魚』
私の旅日記
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