このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
春雨庵
〜斎藤茂吉の歌碑〜
15年前
、蔵王温泉に向かう途中で立ち寄った春雨庵を歩いてみた。
春雨庵
春雨庵の由緒
江戸幕府の厳しい宗教統制のなかで、元和法度(幕府の禁止令)や紫衣
(しえ)
事件に抗議した京都大徳寺153世の沢庵禅師は、寛永6年(1629年)8月、この上山に流されてきました。
当時の藩主
土岐頼行は、この地に小庵を建て居住させたが、沢庵は殊の外この小庵がお気に入り、自ら「春雨庵」と命名し、花鳥風月を愛でながら配流の身を慰められたと言われています。
藩主頼行も、名僧沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上、顕著な治績を挙げ、領民からも名君として慕われました。
寛永9年(1632年)7月、三代将軍家光により赦免された沢庵は、3年間の流刑生活を終え江戸に帰られたが、この間、禅道のほか、詩歌・風流の道、水利や築庭の設計など、京都や江戸の文化を伝え、領民のためにも広範な知識を授け、城下町の発展に貢献されました。
寛永16年(1639年)4月、沢庵に帰依した将軍家光は、江戸品川に東海寺を創建し、沢庵を住職に迎え開山としました。
沢庵は、江戸になっても上山の春雨庵で過ごした頃が忘れられず、時折、語り種
(かたりぐさ)
になるので、正保元年(1644年)に頼行は上山の春雨庵を模して、東海寺の境内に塔頭を建立し、その名も春雨庵と名付け、土岐家の菩提寺としました。
爾来、幾星霜を経て品川春雨庵が一部改造の際、一間
(ひとま)
の長押と天井板などを譲り受け、昭和30年7月、この地に復元したのが現在の春雨庵であります。
正面には、沢庵の尊像(原図は吉川英治、作は初代野川陽山)と、茶人でもあった沢庵を偲び、南側には日本茶道院石山太柏設計による茶亭(望岳軒・聴雨亭)および飯田十基設計の茶庭が配されています。また、この「春雨庵跡」は、昭和28年8月31日、山形県史跡に指定されたものであります。
春雨庵にて詠める歌 二首
花にぬる胡蝶の夢をさまさじとふるも音せぬ軒の春雨
浅くともよしや又汲む人もあらばわれにこと足る山の井の水
上山市教育委員会
沢庵の尊像
沢庵和尚は宮本武蔵の師匠で知られている。
春雨庵の左手に
斎藤茂吉の歌碑
があった。
上ノ山に籠居したりし澤庵を大切にせる人しおもほゆ
出典は『白き山』。昭和21年(1946年)1月に詠まれた歌である。
昭和39年(1964年)10月、春雨庵保存会建立。
斎藤茂吉記念館によれば、23番目の茂吉歌碑である。
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