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私の旅日記2011年

上山城〜南佳孝さん〜
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上山市鶴脛町元城内に上山城がある。


出羽国 上山城


 上山城は、室町時代の応永年間初期(1400年前後)に、羽州探題で最上氏の祖、斯波兼頼の曾孫里見満長が初めて着封、上山殿と称し、虚空蔵山に山城を築いたのが初めとされ、当時は高楯城または亀ヶ岡城とも言われていた。

 永正11年(1514年)には、伊達稙宗に攻略され、翌年和睦し返還、5年後に再び攻略されたが、天文4年(1535年)満長の子孫武衛義忠が挙兵して奪還した。

 同年高楯城を廃して、新たにこの地天神森に平山城を築き、月岡城とも称した。

 その後、城主は武衛氏三代、里見氏、元和8年(1622年)最上家改易後、能見松平氏、蒲生氏等を経て、土岐氏二代が領した17世紀の後期には、城郭として最も整備され、白壁の城壁をめぐらし、後景には四季折々の緑や紅葉に映えた上山城は、小藩(2万5千石)ながら奥羽の名城と称されていた伝えられている。

 しかし、元禄5年(1692年)土岐氏が転封直後、幕府の命により跡形もなく破壊された。

 以来、上山藩は金森氏、藤井松平氏(3万石)10代の治領下で170年余年間、代々城の再建が宿願であったが、明治維新まで一部を修復するに止まり、再築されることはなかった。

 周囲の堀も、明治5年に埋め立てられ、城の西側に僅かに内堀の名残りを留めている。

 現在の上山城は、昭和57年に旧二の丸跡に城郭風の郷土資料館として建設したものである。

 寛永6年(1629年)、沢庵禅師は幕府の命により上山に配流された。当時の上山城主土岐頼は行沢庵の身柄を預かり手厚く保護して 春雨庵 を贈った。

 元禄5年(1692年)7月、六代 高山 城主金森頼時は上山に転封。

 寛政6年(1794年)、上山藩の家老 金子万嶽 は江戸に出て麻布広尾野に草庵を結び、俳人となる。上山俳諧中興の祖と言われた。

 明治39年(1906年)10月27日、河東碧梧桐は汽車で上山に着いた。

 後の十日月冴え渡る頃、汽車で上の山に着く。山形の桜園子等すでに予を待ちつつあった。(羽前上の山にて)

   最上で上の山の粋な夜寒かな


旧本丸跡には 月岡神社 がある。

上山城城門前広場


の町ジャズフェスタ「ゆかたde音楽祭 inかみのやま温泉

スペシャルゲストに「南佳孝さん」


南佳孝さんは震災当日花巻市でコンサートを予定していたそうだ。

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