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私の旅日記
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2013年
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高山陣屋跡
〜「若き日の山岡鉄舟」像〜
高山市八軒町に高山陣屋跡がある。
史蹟
高山陣屋跡
元禄5年(1692年)7月、六代高山城主金森頼トキは、出羽国
上ノ山
に転封となり、飛騨国は徳川幕府の直轄領となった。幕府は8月18日関東郡代伊奈十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、22日に加賀国前田綱紀に高山城在番を命じた。伊奈代官は金森氏家臣4家の屋敷を会所として金森氏転封後の事務処理にあたった。
元禄8年(1695年)4月、高山城の取り壊しが始まり、三代高山城主金森重頼の3人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して“高山陣屋”と称した。以後明治維新に至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。
元禄8年当時の高山陣屋は約28,000平方メートルの広大な敷地を有していた。高山城三の丸にあった米蔵2棟を陣屋内に移築し御蔵とした以外、建物の配置・規模等は不明である。享保10年(1725年)、老朽化が激しきなった高山陣屋の建物は、御蔵以外全て解体され、旧材を利用して御役所と御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。しかし、敷地は3分の1に縮小されている。その後、文化13年(1816年)御役所、文政13年(1830年)郡代役宅、天保3年(1831年)御門と陣屋の建物は漸次改築された。
この間、享保14年(1729年)に美濃国の一部、明和4年(1767年)に越前国の一部が飛騨代官の所管地となり、また安永6年(1777年)十二代代官大原彦四郎紹正が布衣郡代に昇進し、関東・西国・美濃と並んで飛騨は幕領の中でも有数の地位を占めるに至った。
明治維新後、飛騨県、高山県、筑摩県、岐阜県と行政区画が変転する中にあって、旧高山陣屋は県政の庁舎などに転用され、また敷地も分割されていった。昭和44年、飛騨県事務所が移転し、高山陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会が所管することとなった。岐阜県教育委員会は全国にただ1つ現存する幕府の陣屋跡を後世に保存すべく、昭和45年以来、文化庁の指導・支援を得て復元修理工事を実施している。
岐阜県教育委員会
金森頼トキは頼時。
陣屋前広場の片隅に「若き日の山岡鉄舟」像があった。
昭和62年(1987年)12月、山岡鉄舟翁顕彰会建立。
山岡鉄舟、名は高歩
(たかゆき)
、通称は鉄太郎。幕末の幕臣、明治時代の政治家。禅に通じ、剣を極め、書を能くした。
弘化2年(1845年)、飛騨郡代として着任した父小野朝右衛門、母磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ、15歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。 剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、のち一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いた。禅は13歳ごろに始め、国・漢学・絵画等も高山在住時代の約8年間に学ぶなど、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられる。陣屋の松をみて
「降る雪と力くらべや松の枝」と詠んだ。
父母の死後江戸へ帰り、のち山岡家の養子となった。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍、慶応4年(1868年)3月、西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救い、徳川家の安泰を導いた。
維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内小輔を拝名。 52歳の5月、華族に列せられ、勲功により子爵を授けられた。翌明治21年(1888年)7月19日、病を得て結跏趺座
(けっかふざ)
のまま53歳の生涯を閉じ、東京谷中の全生庵に葬られた。父母の墓は高山市東山宗猷寺にある。
山岡鉄舟のことが少しわかった。
高山陣屋跡を見下ろす。
昭和11年(1936年)10月19日、
高浜虚子
は高山を訪れている。
掛稲に山又山の飛騨路かな
十月十九日 遠藤韮城東道。昨夜は飛騨下呂温泉、湯の島旅
館宿泊。今朝高山に行く。角正にて精進料理。
『五百五十句』
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