このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
宝泉寺
〜齋藤茂吉菩提寺〜
「
史跡
金瓶学校」
の隣に宝泉寺がある。
宝泉寺山門
宝泉寺と茂吉
茂吉はこの菩提寺宝泉寺の住職佐原窿応を尊敬し、その幼少期は大きい感化を受けました。
宝泉寺本堂へ向って左側に慈母を思う茂吉の歌碑が建ち、さらに左奥には佐原窿応の墓に並んで、茂吉が昭和12年55歳の時に書いた墓碑銘の「茂吉之墓」裏面に「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」の法名が刻まれ、後には生前自ら植えたアララギの木の枝が茂る下に、昭和28年2月25日の没後、ここに分骨されております。
齋藤茂吉
近代短歌会の代表的歌人齋藤茂吉は、明治15年5月14日右隣の守谷家三男として生まれ、明治29年上京、齋藤家へ寄寓(のちに養子となる)するまでの間、この地の人々より絵、漢字や書などを習い文学的影響を受けながらすごしました。
上 山 市
(財)齋藤茂吉記念館
金峯山宝泉寺
浄土宗
の寺である。
本堂の左手前に
斎藤茂吉の歌碑
があった。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
『赤光』の「死にたまふ母」(其の二)の歌。
昭和48年(1973年)5月10日、建立。
斎藤茂吉記念館によれば40番目の茂吉の歌碑である。
佐原窿応の墓
昭和6年(1931年)8月10日、窿応上人は
蓮華寺
で遷化。
窿應上人
昭和六年八月十日曉天窿應上人近江蓮華寺に遷化したまふ。
御年六十九にいましき
信濃路にわがこもれりしあかつきや窿應上人の息たえたまふ
番場なる蓮華寺に鳴くこほろぎのこゑをし待たず逝きましにけり
『石泉』
茂吉之墓
茂吉が弟直吉(四郎兵ェ)に宛てた昭和9年8月12日の書簡に「僕の戒名を考えたが一字不満足ゆゑ、金瓶の和尚に三とほりばかり考えてもらってくれ……」以後も書簡の往復を繰り返し「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」の戒名がつくられた。
茂吉が亡くなる19年前のことである。
墓字についは昭和12年2月4日の日記に「午後に〔茂吉之墓〕を書き……」とあり、戒名をつくった3年後に書いたことになる。「墓石」は鈴木太四郎石工によって刻まれ、疎開先となった妹なをの嫁ぎ先、斎藤十右ェ門家に、菰で覆い預けていた。
「茂吉之墓」が建立された日は不明であったが、墓の工事中の写真をみせてもらう機会があった。
写真には、茂吉の妹なをと弟直吉(四郎兵ェ)が写っており、二人の間に、なをの孫(当時3歳)と、季節の花も写っていることから、昭和27年5月末から6月にかけて建立されたものと推測される。
茂吉が亡くなる8ヵ月前のことである。
納骨は翌昭和28年5月24日に分骨埋葬された。
宝泉寺の歌
白萩は寶泉寺の庭に咲きみだれ餓鬼にほどこすけふはやも過ぐ
『小園』
昭和20年(1945年)、妹なをの嫁ぎ先齋藤十右衛門方に疎開していた時の歌である。
昭和28年(1952年)6月22日、
水原秋桜子
は宝泉寺に齋藤茂吉の墓を訪れている。
夜更けて蔵王村なる宝泉寺に到
り、斎藤茂吉先生の墓に詣づ
大人
(うし)
の墓故山の梅雨の月とあり
『帰心』
火葬場跡
へ。
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