このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

斎藤茂吉ゆかりの地


史跡 金瓶学校

斎藤茂吉の生家 の隣が「史跡 金瓶学校」。


 上山市指定文化財

史跡 金瓶学校

 この建物は、明治6年宝泉寺住職三十九世佐原隆明が、庫裡を改築する時に隠居所として新築したものであるが、寺子屋としても使われたと推定されている。この建物は翌明治7年に金瓶小学校となり、同20年の学令改正により金瓶尋常小学校と改称されている。

 守谷(斎藤)茂吉はこの学校に明治21年入学したが、同23年半郷尋常小学校に転じ、同25年、前年新設された高等科に進学。同年12月、移転改築された上山尋常高等小学校の高等科に転校、同29年4月第4学年を首席で卒業している。

 この建物は木造2階建で、広さは104.34㎡、階下には約33㎡の教室をはじめ教材置場、控室、休養室などがあり、階上は物置となっている。

 この学校も、明治37年上野尋常小学校(現・蔵王第二小)の新築により廃止され、以来宝泉寺で保存して来たが、昭和56年文化遺産として上山市に寄贈されたものである。

上山市教育委員会



金瓶学校と窿応・茂吉

窿応は文久3年(1863年)置賜郡福沢村金子幸右ェ門の三男として生まれる。

明治7年、12歳で宝泉寺三十九世佐原隆明に従い剃髪得度し、猶阿窿応の僧名を授けられ、隆明の相続人弟子となる。

同じ明治7年、金瓶学校が創立する。

明治10年、窿応は15歳で山形伝習校を卒業し金瓶学校に奉職する。

明治16年(1883年)3月20日、21歳で宝泉寺四十世住職に就任する。

明治21年、茂吉は金瓶学校に入学、2年間在籍し、窿応の授業を受ける。

明治22年7月、金瓶ほか8ヶ村合併により堀田村となり、尋常科3年・4年は半郷校舎で授業を受ける。

明治25年9月、上山尋常高等小学校が完成したことにより、茂吉は12月より高等科1年に転入し、以来3年4ヶ月同校で学び首席で卒業する。

茂吉は、上山校舎に転入後も窿応を慕い、金瓶校舎を訪れ、学校の教科はもとより書道・絵画など、地域の傑出した人々から強い影響を受けながら才能が育まれていったともいわれている。

大正8年(1919年)、佐原窿応は 蓮華寺 第四十九世住職に就任。

宝泉寺 へ。

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