このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
斎藤茂吉ゆかりの地
斎藤茂吉の生家
「茂吉のふるさと」金瓶に行ってみた。
斎藤茂吉の生家
斎藤茂吉は、本姓が「守谷氏」で、明治15年(1882年)5月14日、この家に生まれた。父守谷伝右ェ門は32歳、母いくは28歳であった。
兄廣吉(9歳上)富太郎(7歳上)につぐ三男で、6歳下の直吉、8歳下の妹なをがいる。
茂吉はしばらくぶりに生まれた男の子で、弟が生まれるまでの6年間は、末っ子あつかいで父母の愛情を一人占めにして成長した。
明治29年(1896年)14歳のとき、父母兄弟と別れて上京、同郷の縁戚で病院長の斎藤紀一の家に寄留しつつ一高を経て東大医学部を卒業。紀一の次女輝子と結婚して斎藤茂吉となり、
青山病院
長を継いだ。
生母いくは、この家の蔵座敷で大正2年5月に59歳で亡くなった。その悲しみを歌い上げた「死にたまふ母」59首は、日本短歌史上の絶唱と評価されている。
死に近き母が額を撫りつつ涙ながれて居たりけるかな 茂吉
生家の歌
死に近き母の添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
『赤光』
ふるさとの藏の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり
『あらたま』
昭和28年(1952年)6月22日、
水原秋桜子
は齋藤茂吉の生家を訪れている。
茂吉先生の生家
月下にて蚕飼の灯かも洩れて見ゆ
月くらき梅雨の水音いづこなる
『帰心』
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